2019.6.15「わかりあえないことから~コミュニケーション能力とは何か」平田オリザ

この本「わかりあえないことから~コミュニケーション能力とは何か」も、最初にAudiobookで聞いた後、紙の本も購入し読み直した。平田オリザさんが書かれた本は、これが初めて。対話と会話の違い、話し言葉における冗長性の位置づけなど、「なるほど」と新たな気付きを得ることのできた本である。

~目次~

第1章 コミュニケーション能力とは何か?

第2章 喋らないという表現

第3章 ランダムをプログラミングする

第4章 冗長率を操作する

第5章 「対話」の言葉を作る

第6章 コンテクストの「ずれ」

第7章 コミュニケーションデザインという視点

第8章 協調性から社交性へ

 

この本ではまず、現在の日本企業が求めるコミュニケーション能力が、完全にダブルバインドになっていることを指摘している。

ダブルバインドとは、二つの矛盾したコマンド(特に否定的なコマンド)が強制されている状態をいう。

たとえば企業は表向きには「異文化理解能力」を求めている。これは、異なった文化、価値観を持った人に対しても、その背景を理解し、きちんと自分の主張を伝えることができる能力。さらに時間をかけて妥協点を見いだすことができる能力ということ、素晴らしい能力である。

ところが一方で、無意識のうちに日本的な能力を同時に求めている。「上司の意図を察知して機微に動く」あるいは「会議の空気を読んで反対意見は言わない」など、一言で言えば聖徳太子の時代から大切にされてきた価値感「和」を大事にし乱さない、ということか。

つまり私たちの暮らす日本社会は、「異文化理解能力」と従来からの「同調圧力」のダブルバインドにあっている。

この理解がコミュニケーションを考えるうえで、もっとも大切な前提となるだろう。

ここからは、本を読んでいくなかで特に心に響いたポイントを簡単にまとめてみる。

 

話し言葉は、無意識に垂れ流されていく。これをどこかでせき止めて意識化させる。できることなら文字化させる。これが話し言葉の教育。

・人間は何かの行為をするとき、必ず無駄な動きが入る。認知心理学の世界では、マイクロスリップと呼ぶ。

うまい俳優と下手な俳優の違いの要素の一つとして、この無駄な動きの挿入度合い(量とタイミング)がある。

・「ある台詞を言うときにはグラスを見る」というように、私たちの脳はインプットとアウトプットを関連付けて記憶している。長期的な安定した記憶は、複雑な印象の絡み合いから起こる。

・いま大事なことは、「たくさん覚える」「早く覚える」から「よく覚える」という教育への転換である。

・強弱アクセントによって感情を表現するという歪んだ演技方が、日本における近代演劇の成立以来、ずっと長く流布してきた。「芝居がかった」「芝居臭い」という感覚は、実はここに由来する。

・日本語の最大の特徴は、語順が自由だということにある。

・私たちは、どんなときに間投詞、「ああ」「ええ」「まあ」をよく使うのだろうか?

・「対話」と「会話」を区別する、これが大事。

対話とは「ダイアログ」、会話とは「カンバセーション」、英語では異なる概念であるが、日本語ではこの区別が極めて曖昧となっている。ここであえて二つの言葉を定義し直すなら

「会話」=価値観や生活習慣なども近い親しいもの同士のおしゃべり

「対話」=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは、親しい人同士でも価値観が異なるときに起こるその摺あわせなど

・日本社会独特のコミュニケーション文化=「わかりあう文化」「察しあう文化」、そしてこの背景のもと「温室のようなコミュニケーション」が存在する。

これと対照的に、ヨーロッパを中心としたグローバルな世界では、「説明しあう文化が形成されてきた。

・コミュニケーションのダブルバインドを乗り越えるということはむなしさに耐える、ということ。

・「対話」と「対論」の違いは何か?

対論=「ディベート」はAとBという二つの論理が戦って、Aが勝てばBはAに従わなければならない。Bは意見を変えなければならないが、勝った方のAは変わらない。

一方、対話はAとBという異なる二つの論理が摺合わさり、Cという新しい概念を産み出す。AもBも両者が変わるのだという前提に話を始める。

・話し合い、二人で結論を出すことが、何よりも重要なプロセスである。

・日本では説明しなくてもわかってもらえる事柄を、その虚しさに耐えて説明する能力が要求される。この能力を「対話の基礎体力」と呼んでいる。

・「冗長率」とは、一つの段落、一つの文章に、どれくらい意味伝達とは関係のない無駄な言葉が含まれているかを、数値で表したもの。

・人は、「会話」においては、間投詞を多用しない。それが「対話」になると間投詞が多用される。つまり「対話」においては冗長率が増す。

・私たちが「あの人は話がうまいな」「あの人の話は説得力があるな」と感じるのは、冗長率を時と場合によって操作している人である。冗長率を操作できる人が、コミュニケーション能力が高いとされるのである。

参考:「くりかえしの文法」(大修館書店)プリンスト大学東洋学科教授 牧野成一

・多くの途上国では今も高等教育の授業は、英語か、あるいは旧宗主国の言語で行われている。こういった環境では、なかなか民主主義は育たない。言語の取得が、社会的な階層をそのまま決定づけてしまうため。

論理的な事柄を自国語で話せるようにするのには、ある種の知的操作や、それを支える語彙が必要で、自然言語のままできるものではない。

・日本語には対等な関係で褒める語彙が極端に少ない。上に向かって尊敬の念を示すか、下に向かって「褒めてつかわす」ような言葉は豊富にあるが、対等な関係の言葉が見つからない。そして今、「対等な関係における褒め言葉」という日本語の欠落を「かわいい」は、一手に引き受けて補っている。

・関係がなければ言葉は生まれない。

・日本語は、もっとも性差(男女間)の激しい言葉の一つである。このことが、無意識のレベルで女性の社会進出を阻んでいる。

・言葉の観点から言えば、「対話」の欠如がファシズムを招いたと言える。後発の近代国家であった日本、ドイツ、イタリアは、合理的にエッセンスだけを模倣しようとする。そこでは無駄は排除されスピードが求められる。

したがって、冗長性が高く面倒で時間のかかる「対話」は当然のように置き去りにされた。

そして日本では、まだ「対話」の言葉を確立していない。

・日本人の奥ゆかしく美しいコミュニケーションは、国際社会においては少数派であるという認識が必要である。

欧米では、自分の芸術について語れなければ無能扱いされる。翻って日本では、芸術家が自作を語ったり、説明するのは野暮なこととされる。

欧米のコミュニケーションが、取り立てて優れている訳ではない。しかし多数派は向こうである。多数派の理屈を学んで損はない。

・マナーと人格は関係ない。多少の相関はあるだろうが、性格は悪くてもナイフとフォークの使い方だけはうまい奴はざらにいる。コミュニケーション教育は人格教育ではない。

話し言葉の個性の総称を、「コンテクスト」と呼ぶ。コンテクスト=context は、本来”文脈”という意味だが、「その人がどんなつもりでその言葉を使っているのか」の全体像と少し広く捉えると分かりやすい。

まったく文化的な背景が異なるコンテクストの「違い」より、その差異が見えにくいコンテクストの「ずれ」の方がコミュニケーション不全の原因になりやすい。私たちは「ずれ」には気づきにくい。

・近代科学は、「How」「What」には、結構答えられるのだけれど、「Why」については、ほとんど答えられない。

・リーダーシップとは、人を説得できる、人々を力強く引っ張っていく能力を指す。しかし、これからの時代に必要なもう一つのリーダーシップは、弱者のコンテクストを理解する能力であろう。

・様々な問題を個人に求めるのではなく、関係や場の問題として捉える。

・原因と結果を一直線に結びつけない考え方を一般に「複雑系」と呼ぶ。

・「シンパシーからエンパシーへ」つまり「同情から共感へ」「同一性から共有性へ」

・日本人に求められているコミュニケーション能力が変わってきた。今までは、空気を読む能力、「こころを一つに」「一致団結」といった「価値観を一つにする方向のコミュニケーション能力」が求められてきた。

これからの新しい時代には、「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかうまくやっていく能力」が求められる。いわば「協調性から社交性」である。

・心からわかりあえることを前提、最終目標としてコミュニケーションを考えるのではなく、「人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が、そうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれない」と考える。

フィンランド・メソッドに象徴されるヨーロッパの国語教育の主流は、インプット=感じ方は、人ぞれぞれでいいというもの。逆にアウトプットは、一定時間内に何らかのものを出しなさい、というのがフィンランド・メソッドの根底にある思想である。

いい意見を言った子供よりも、様々な意見をうまくまとめられた子供が褒められる。

もっとも重視されるのは、集団における「合意形成能力」あるいはそれ以前の「人間関係形成能力」である。

・大人は、様々な役柄を演じ分けながら生きている。私たちは多様な社会的役割を演じながら、かろうじて人生の時間を前に進めている。

本当の自分などというものはない。私たちは、社会における様々な役割を演じ、その演じている役割の総体が自己を形成している。

この演じるべき役割を「ペルソナ」と呼ぶ。この単語には「仮面」という意味と、personの語源となった「人格」という意味が含まれている。仮面の総体が人格を形成する。

人間のみが、社会的な役割を演じ分けられる。私たちは演じるサルなのである。

・かつて自動炊飯器が日本の家庭に普及したとき、日本の主婦の睡眠時間が1時間延びた。冷蔵庫が普及すれば、日本の家庭から食中毒が一掃された。洗濯機がお母さんの手からあかぎれを無くした。