2019.7.15「棒を振る人生~指揮者は時間を彫刻する」佐渡裕

いつものように近所の本屋でぶらぶらしているとき、ふと目に入った本、私の大好きな指揮者佐渡裕さんの書かれた本「棒を振る人生~指揮者は時間を彫刻する」。佐渡さんはすでに3冊も本を書かれているらしい、知らなかった。早速読んでみる。

佐渡さんのコンサートは何度も聞きに行っており、あの情熱溢れる指揮と時にはユーモアある話を楽しんでいる。この本もそんな佐渡さんの音楽に対する深い愛情と、様々な経験から感じ取った考察が、テンポのいい言葉で綴られており一気に読み終えた。

特に心に残った言葉を備忘録として記載しておく。

まずは目次。

第一章 楽譜という宇宙

第二章 指揮者の時間

第三章 オーケストラの輝き

第四章 「第九」の風景

第五章 音楽という贈り物

終章 新たな挑戦

・指揮者は何のためにいるのか

 指揮者と聞いて皆が思い浮かべるイメージは、ステージでオーケストラに向かって指揮棒を振っている姿だろう。しかし、指揮者の仕事のほとんどは、指揮台に立つ以前にある。

指揮者と演奏者の共通言語になるのが楽譜。指揮者はオーケストラの中で唯一、音を鳴らさない音楽家だ。

朝比奈隆先生の生涯最後となった演奏会は、2001年10月に上演したチャイコフスキーの「交響曲第五番」。オーケストラは大阪フィルハーモニ交響楽団。先生は93歳で、そのおよそ二ヶ月後の12月29日に亡くなった。このとき最初の一振りのあと先生は譜面台に手をついたまま動けなくなってしまった。しかし、大フィルの演奏は最後まで整然と続いた。そのときの朝比奈先生は、音のシンボルとして圧倒的な存在感でオーケストラの前に立っていた。それは指揮者の究極の姿だった。

武満徹さんの言葉。

ハ長調ほど美しいものはない。ドミソほど美しいものはありません」僕がキョトンとしていると、武満さんはブラームスの「交響曲第一番」の第四楽章の一部を口ずさんだ。ハ長調のシンプルなメロディーだ。

・今日の演奏が、客席にいる少年佐渡裕に誇れる演奏かどうか。それは演奏会の善し悪しを判断するときの、僕の中で決して動かない基準である。

「第九」について

第四楽章は部屋の中を思いきり散らかしたような不協和音で始まる。そして第三楽章までのメロディの断片を繰り返し、回想する。

第一楽章 過酷な試練に立ち向かう強い意思

第二楽章 肉体的快楽

第三楽章 恋愛、隣人愛、人類愛 

けれど、これらだけでは求めていた真の喜びには辿り着けない。そして冒頭に現れた不協和音を否定するようにバリトンソリストが、「おお友よ、このような音でなく、もっと快い、そして喜びに満ちた歌を歌い出そうではないか」と第一声をあげる。

そして「すべての人が兄弟となり、一つになることを歓喜と呼ぼう」という合唱に繋がる。

・人生に自動ドアはない。人生には勇気を振り絞らなければ開かない扉はいっぱいある。そして勇気を出すときの気持ちは、年齢や状況は変わっても実は同じなのだと僕は思う。

・もし神様がいるとしたら、音楽は神様からの贈り物なのだ。「人間は一緒に生きていくことが、本来の姿なんだよ」ということを人間に教えようとして、神様は音楽を作ったのではないかと思う。

バーンスタインの言葉

「ユタカ、ウィーンで友達はいるのか。いないのなら、私のウィーンの大親友を紹介するよ」と言ってくれた。そうして連れて行ってくれたのは、ベートーヴェンの像の前だった。「彼が昔からの大親友、ルートヴィヒだ。おまえも今日からルートヴィヒと呼べばいい」

なぜか心が暖かくなる話。この本を読んで、ますます佐渡さん、そして音楽が好きになった。