2020.4.12「仕事に効く教養としての『世界史』」出口治明

またサボってしまいました。久しぶりにブログをアップします。

今回は、私の大好きな出口さんが5年前に書かれた世界史の本(世界史の入門書と言っていいと思います)を改めて読み、心に残っているポイントを備忘録的に記録したいと思います。

まずは目次から

第1章 世界史から日本史だけを切り出せるか

 ──ペリーが日本に来た本当の目的は?
第2章 歴史は、なぜ中国で発達したのか

 ──始皇帝が始めた文書行政、孟子の革命思想
第3章 なぜ神は生まれたのか。なぜ宗教はできたのか

 ──キリスト教と仏教はいかにして誕生したのか
第4章 中国を理解する四つの鍵

 ──中華思想諸子百家遊牧民対農耕民、始皇帝
第5章 キリスト教とローマ教会、ローマ教皇について

 ──成り立ちと特徴を考えるとヨーロッパが見えてくる
第6章 ドイツ、フランス、イングランド

 ──知っているようで知らない国々
第7章 交易の重要性

 ──地中海、ロンドン、ハンザ同盟、天才クビライ
第8章 中央アジアを駆け抜けたトゥルクマン

 ──大帝国を築いたもう一つの遊牧民族
第9章 アメリカとフランスの特異性

 ──人工国家と保守と革新
第10章 アヘン戦争

 ──東洋の没落と西洋の勃興の分水嶺

終 章 世界史の視点から日本を眺めてみよう

■備忘録

はじめに

キッシンジャーの言葉「どんな人も生まれた場所を大事に思っている。自分の先祖を立派な人であってほしいと思っている。人間も、このワインと同じで生まれ育ったところの盧気候や歴史の産物だ」

 

第1章 世界史から日本史だけを切り出せるか

奈良時代(7世紀)の日本にとって世界とは、韓半島と中国のこと。当時の倭は、中世のスイスのような一種の傭兵国家ではなかったか。スイスの場合、その名残がヴァチカンの法王庁の警備を担っているスイス兵。

・隋、唐という大帝国は五胡十六国の中から生まれた。鮮卑(せんぴ)という遊牧民の中の拓跋部(たくばつぶ)という有力部族が最終的に樹立した国家。ローマ帝国に侵入した諸部族の中で、最後にフランク族が残ったのと似ている。

拓跋部は、男女同権的な民族であったため実質的に唐を支配していた武則天に代表されるように女性で頑張った人が多くいる。

奈良時代に日本で女性が活躍したのは、このようなロールモデルが周辺世界にあったから。日本のスタートアップに関わるキーパーソンは「讃良(持統天皇)、藤原不比等光明子安宿媛)の3人。

・鉄砲は1543年に種子島に漂着したポルトガル人が伝えたと言われている。しかし今では倭寇の親分でもあり博多商人とも親交のあった王直という中国人の船に、ポルトガル人が乗って種子島にやって来たことが明らかになっている。

倭寇の実体は、中国や韓半島、日本の海に生きる人たちの連合共和国、台湾や五島列島とか権力の及ばない島を根城にして海で暮らしていた人たちが作った自由な共和国だったのではないか。

・ペリーの来日の目的は、捕鯨船の補給基地ではなく、大英帝国と争っていた対中国貿易のための太平洋航路の中継地点を獲得することだった。

・当時、欧米の金銀比価は15対1だったが、日本は4.65対1程度だったため、日本に大量の銀が流入し、その代わり大量の金が流出した。為替はゼロサムゲームであるから日本はどんどん貧しくなる。

・人間は交易によって豊かになる。交易は必ず双方を豊かにするのでずっと昔から行われてきた。交易こそが世界を繋ぐキーワード。人間の歴史は、一つの世界システムであって5000年史ひとつしかない。文字が生まれてから約5000年

 

第2章 歴史は、なぜ中国で発達したのか

・歴史が後世に残るには、文字を作るだけでなく、何を筆写材料にしたかが大きく影響する。東漢後漢)の時代になって蔡倫という人が「紙」という革命的な筆写材料を完成させた。

 ・四大文明の中で歴史が一番よく残っているのは中国。中国の歴史を発展させたのは紙の発明の次に秦の始皇帝が始めた「文書行政」である。

・中国で実在が確認できる最古の王朝は「商(殷)」、紀元前17世紀から紀元前11世紀まで約30代、600年間存続した。この時代に使われていたのが甲骨文字であり、この文字を書ける職人を国が独占していた。

・商の後、周という国に代わっても同様。ところが紀元前770年頃に周王が殺され国が亡びると、字を書ける書記「金文職人」と呼ばれたインテリたちは職を失い、地方の領主のところに散っていった。これにより広く漢字が流布した。フランス革命のとき、ブルボン朝の料理人がクビになってフランス料理店を開いたのと同じことが中国でも起こっていたということ。

・世界で文献がもっとも残っているのは、中国とイスラム世界だと言われている。

・商から周への王朝交代は画期的な事件であった。商の時代は祭政一致だったが周になると天空の支配者と人間界の支配者が分離しだした。その後、儒教を大成した孟子が「易姓革命」という理論を作った。これは「主権は天が持っている」という理論。悪い政治に対し、まず天が合図して、それでも言うことを聞かなければ天命によってによって王朝が革(改)まる、王朝の姓が易(かわる)という革命思想である。

・紀元前500年頃に地球が暖かくなって、鉄器が広く普及したという事実はとても重要。高度成長期が世界規模で訪れた。衣食が足り余裕が生まれる。ソクラテス孔子ブッダ、など偉人が一斉に現れた。

・権力の守り方には2種類ある。貴族制と官僚制。貴族制は「領地をやるから、その代わり俺を守れ」、貴族制は所領安堵のためロイヤリティは高い。しかし賢い子供が生まれるとは限らないのが欠点。官僚制は、一代限りで優秀な人材を王様が集める。必ず優秀な人が集まるけれども、ロイヤリティは生まれない。優秀なだけに「こいつを殺して俺が王様になろうか、と思うリスクがある。

科挙という全国統一テストが、なぜできたかというと「紙」と「印刷」技術があったから。参考書が全国に行き渡らないと試験は実施できない。技術が制度にいかに影響を与えるかの好例。

第3章 なぜ神は生まれたのか。なぜ宗教はできたのか

・20~15万年ぐらい前に、アフリカのタンザニアにある大地溝帯のサバンナで「ホモ・サピエンス」が誕生した。その中の冒険心に富んだ人がステーキを食べたいと、ユーラシア大陸に出て行った。ユーラシアを東に進みさらに北上してベーリング海峡を渡り南アメリカの先まで広がっていった。これが「グレートジャーニー」と呼ばれる。これは化石を調べると、大型草食獣の骨が激減する時期とホモ・サピエンスの骨が出始める時期がほぼ一緒ということからわかる。

・ところが人類は1万3千年ほど前、突然「獲物を追いかける生活はやめたい。俺は周囲を支配したい」と考え始める。これを「ドメスティケーション」domesticationと呼んでいる。自分が主人になって、世界を支配したい。植物を支配するのが「農耕」、動物を支配するのが「牧畜」、金属を支配するのが「冶金」、さらに自然界のルールをも支配したいと考え出す。これが神につながったのではないか。

・紀元前8000年、9000年代の西アジアの遺跡から、用途の説明が付かない土偶が現れる。赤ちゃんを産む神秘的な力を持つ女性を象徴したような土偶など。この頃から人類は神について意識し始めたのではないか。

・人間の頭は、人間に似たものしか考えられない。そこで神様の姿形が生まれた。

・宗教は本質的、歴史的に「貧者の阿片」である。不幸な人々の心を癒す阿片。宗教は現実には救ってくれない、しかし心の癒しにはなる「貧者の阿片」。現世とあの世を分けて、あの世では救われるという宗教のロジックは、非常に分かりやすく納得できるロジック。

・世界の暦のほとんどは「太陽太陰暦」。1日は太陽、1年も太陽。その間に月の満ち欠けをプラスした。月だけではずれてしまうため、うまくバランスのとれる「太陽太陰暦」に収束した。

・1年を越える時間も真っ直ぐに流れていくもの、という概念が生まれた。ギリシャ神話の「スフィンクスの謎」。朝は四つ足、昼は二本足、夜は三本足で歩くのは?答えは人間。

・直線であれば始まりと終わりがあるはず。始まりは神様が世界を作った時、では終わりはいつだろう?と考えるのは自然なこと。紀元前1000年頃にペルシャの地にザラスシュトラツァラトゥストラゾロアスター)という天才が現れ新しい概念「世界の始まりは神が作った。世界の終わりは人間がやって来たことを神が審判し決める」を考え出した。

ツァラトゥストラはドイツ語読み、ゾロアスターは英語読み。哲学者ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」で有名。リヒャルト・シュトラウスにも同名の曲がある。

セム語族の中のヘブライ人(ユダヤ人)が独占欲の強い嫉妬深い神を生み出した。これがセム的一神教といわれる宗教グループの始まり。ユダヤ教から始まり、キリスト教イスラム教、すべて同じ神。ヘブライ語ではYHWHと表現されていて、ヘブライ語は母音がないのでなんと読むか定説がない。一応「ヤハウェ」と呼んだりしている。時間を直線的に捉えるグループの中からセム的一神教が生まれキリスト教イスラム教に代表される一神教に代表される大木に育った。

・直線的に流れる時間という概念の一方で、「回っている時間」という考え方も生じてきた。時間は回っていて、生命も回っている、という考え方。これがインドで生まれた「輪廻転生」という考え方。時間を循環する円環で捉える宗教の代表が仏教だろう。

・神様は全知全能、オールマイティである。しかし本当に困っても悲惨な状況になっても何故助けてくれないのか?この問題はセム的一神教の弱点かもしれない。この問題に答えを出したのも天才ザラスシュトラ。彼は「善悪二元論」、つまり時間軸で解決した。全知全能の神様が世界を作った、これがスタート。最後は神様が最後の審判を行い正邪を分ける。それまでの間は正しい神と悪い神が戦っている、善と悪の闘争期間。悪い神様の勢いが強い時は悪や悲惨が蔓延っているように見える。分かり易い!

・この善悪二元論は、ゾロアスター教から分かれたマニによって大成された。マニは3世紀半ばのサーサーン朝ペルシアの人でバビロニアに生まれた。ゾロアスター教を元に、キリスト教と仏教の要素を加えてマニ教を創始。この教えは広く行き渡り、知識人を中心に大きな影響を与えた。キリスト教の中にも二元論が根強く残っている。

・古代の物語ほど新しい(最後に書かれる)のは、世界共通の真理。

・清く正しい貧しい人々は、ともすれば、狂信的になりやすく、偏屈になりやすい。

キリスト教が生まれたのは、初代皇帝アウグストゥスの時代のローマ帝国ローマ帝国ギリシャの神をそのまま祀っていたが、支配階級はストア派の哲学を信奉していた。これは無神論に近い極めて道徳的欲求の高い哲学。いおおぷローマ市民は、二つの宗教を信奉していた。一つはペルシアから来た「ミトラス教」、もう一つはエジプトから来た「イシス教」

・ミトラスは太陽神。冬至に生まれて、夏至に最強になって、また冬至に死ぬ。この冬至をミトラスが「再び生まれる日」として盛大に祝った。これをキリスト教が取り入れてできたのがクリスマス。

・イシス教はイシスという女神が主役。イシスは偉大なる大地母神として進行されており、ローマでは彼女がホルス(我が子)を膝に乗せて抱いている像が市民に敬愛されていた。これにキリスト教が便乗して、幼子イエスを抱いた聖母マリアの像を作り出した。

ゾロアスター教拝火教)はアーリア人の宗教が源になっている。彼らは地球が寒くなったときカスピ海の北方から南下し、アゼルバイジャンのバクーの辺り(石油の大産地)まで来たとき自然発火している石油を見た。アーリア人はこの火を神様と思ったのだろう。この伝承がザラスシュトラに新しい宗教に目覚めさせる契機となった。今でもバクーの地にはゾロアスター教の「永遠の火」を象徴する聖地が残されている。

・この「永遠の火」はインドを経由して仏教には入り形を変えて日本まで伝わっているのではないか。それは比叡山延暦寺に今も燃え続けている「不滅の法灯」

 

第4章 中国を理解する四つの鍵

1 「中華思想

・交易には大別して二つのパターンがある。まず、普通の商売。需要と供給をマッチさせ、ウィン・ウィンの関係で交易が成立する。これが圧倒的多数。

・もう一つは、「威信財交易」。これは王様の威信と財物が取引される交易。これは、王さま同士が、どちらが偉いか試そうということで使節を出す。この時、自分の偉大さを示すために宝物を持っていく。「こんな立派な物、おまえは持っていないだろう」というわけ。受けた方は「こんなのちょろい。俺はもっとすごいものを持っている」と倍返しする。これによって何となく序列ができる。この王様同士の交渉を「威信財交易」と呼んでいる。

・周は中国のど真ん中を支配していた伝統も力もある王朝だった。周は青銅器という誰も作れない宝を作り相手に贈っていた。もらった相手は「周の王様はやっぱり俺より偉いのか」と納得する。合わせて青銅器に書かれていた漢字の魔力により、いつのまにか周の王室は特別な存在であると考えられるようになる。これが「中華思想」の起源。中華とは、周とその周辺を示す言葉であった。中夏、中国という言葉も同義。

2 「諸子百家

諸子百家の中で代表的な学説や思想は、儒家道家墨家、法家、名家など。文書行政にもっとも役立ったのは、法家であり、その代表が韓非子。中国を動かしていたのは法家と官僚であった。政治の実務は法家が行っていたが、それだけでは物足りない。実務(本音)だけでなく、次は夢とか大義、つまり建前がほしくなる。その建前になったのが儒家であった。

儒家は先祖を大切にするから、立派な葬式を出すことを大切にする。立派な葬式を出すためには金がかかる。真面目に生き、家庭を治め、社会を治め、王様に従い、長幼の序を大事にし、反抗せず、高度成長を謳歌し、立派な葬式を出し、税金をたくさん払う、という考え方。まさに儒家の思想は紀元前500年代の高度成長期の時代の追い風を受けていた。

墨家始皇帝に潰されてほぼ消えたことから、中国の思想界は仏教などの外来思想が入ってくるまでは、一般大衆を基盤に持つ高度成長万歳という儒家と、知識人をベースにしたクールな道家が思想界の二大潮流を作っており、この二つのバランスが社会の安定につながっていた。

3 「遊牧民と農耕民の対立と吸収」

・中国の歴史は、北から入ってくる遊牧民と、長江(揚子江)中心とした農耕民の戦い(緊張関係)の中で捉える。

・中国は国土が広く豊か、ここに入ってきた遊牧民が次第に吸収され、贅沢に慣れて消えてしまう。侵略したが側が、侵略された側に影響を受けて吸収されてしまう。これが中国史の大きな特徴。

・紀元前17世紀頃に起こった商(殷)では既に宦官が使われている。また初期の頃から馬が引く戦車で戦争を行っていたことが文献に残っている。

・宦官は遊牧民の伝統。遊牧民が家畜をコントロールするとき、雄の数が多すぎたり、体が弱い雄の子を産ませないために去勢という方法を取る。宦官という発想自体が遊牧民でないと生まれない。ちなみに日本にはなかった。

メソポタミア文明の影響が中国に及ぶまで約1000年かかった。これは陸路(砂漠を越えユーラシアの大草原の遊牧民を経由)で伝わるのは海路より倍ほど時間がかかることを意味する。インダス文明は海を経て中国に伝わった。

・漢の時代、武帝のあとの漢と匈奴は勝ったり負けたり、漢の皇室と匈奴の皇室はお互いに結婚を繰り返し平和共存していた。ところが2~3世紀にかけて地球は寒冷期を迎える。天災、飢饉が相次ぎ漢は滅びてしまう。その後は三国史の時代(魏・呉・蜀)。漢の最盛期5000万人いた人口が1000万人を切ったとされる。

・漢について。漢は秦の旧都の近く長安に都を置き、武帝の時代に最盛期を迎える。その後、王莽(おうもう)が政権を奪って新を建国するが15年で滅び、漢が洛陽を都として復活する。長安を都にしていた時代を「西漢前漢)」、洛陽を都としていた時代を「東漢後漢)」と呼ぶ。東漢は魏によって滅亡させられる。

・この時代はユーラシア全体が寒かった。モンゴル高原にいた様々な遊牧民は、暖かい空気と緑の草原を求めて東南と西南の方向に大移動を開始した。

・西方に向かった匈奴フン族と呼ばれ、彼らが西進したことで多くの諸部族が玉突きで追い出されヨーロッパ(ローマ帝国)に侵入する。これが、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」。

・東方に向かった遊牧民が、五胡十六国になった。この乱立時代に幕を下ろし、最後に統一したのは北魏。この国は鮮卑の中の拓跋部が作った国。この民族は西方のフランク族のように強力で優秀な部族であった。中国は北の北魏と南の宋が対立する、南北朝の時代に入った。

北魏では、従来の易姓革命という大義名分に代わり、異民族である自分達が中国を支配する建前、イデオロギーとして仏教を国教とした。皇帝=仏、軍人・官僚=菩薩、人民=(救いを求めている)衆生という考え方。こうして東漢の時代に中国に入ってきた仏教は、北魏の時代に大勢力になる端緒が開かれた。

北魏から隋、唐を通して「拓跋帝国」という呼び方もある。当時の中央アジアにいた遊牧民は中国のことを「タクバチュ」と呼んでいた。十字軍を東方の人々が「フランク」と呼んだのと一緒。やがて契丹(きつたん)の勃興に伴って、中国のことを「キタイ」と呼ぶようになり、これがキャセイ(中国の意の文語cathay)という言葉のもととなる。

4 「始皇帝のグランドデザイン」

始皇帝は戦国時代に行われていた文書行政を集大成し、全国を36の郡(後に48)に分け、さらに郡のしたに多くの県を置いて、中央集権の郡県制という制度を作った。

・これは都道府県の知事はすべて中央から派遣するという考え方。国を支配するのは貴族ではない、エリート官僚である、ということ。

・今の中国では、共産党という超エリート集団が北京から全土に指令を出している。儒教に代わる建前が「共産主義」で、その共産主義の裏が儒教。今でも知識人は書を上手に書くし、儒教に従い高度成長、つまり金儲けが大好きである。

始皇帝のもっとすごいことは、文書行政が可能となるインフラ、道を整備したこと。道があるから文書も官僚もスムースに運ばれる。ローマ帝国のように大量の石材がなかったため石畳が作れず土の道路が中心。そこで始皇帝は車軸を統一した。土の道路だから車が通ると凹む。通る車の車輪の幅が違ったら走りにくい。だから車軸を統一し、同じ轍の上を走れるようにした。鉄道の上を汽車が走るようなもの。

・加えて書体や度量衡なども統一し、経済の一体化を図った。始皇帝が中国のすべての骨格を作った、と言える。


第5章 キリスト教とローマ教会、ローマ教皇について

カトリックとは、ラテン語で「普遍的」という意味の言葉。この言葉はすでにキリスト教ローマ帝国時代に協会内部で使われていた。イエスの教えが「この世の至るところで、常に、万人によって」信じられるようにという布教の意気込みをカトリックという言葉に込めていた。

・11世紀半ばにキリスト教は東西に大分裂する。この頃にはローマ帝国の首都はコンスタンティノープルに置かれており、現実的な力を持っていたのはコンスタンティノープルの教会であった。一方、使徒の頭であるぺトロの後継を自認するローマ教会も権威と伝統を誇っていた。1054年両者はお互いを破門してしまう。コンスタンティノープル側は、我々が教義に基づく「正しい教会」であると主張し「東方正教会」と名乗った。一方、ローマ教会は自分達こそ「普遍的な存在」として「カトリック教会」と自称した。

キリスト教ローマ帝国の国教となるまで。ローマ帝国は1~2世紀末の五賢帝の時代に最盛期を迎える。しかし3世紀中頃以降は地球が寒冷期には入り東方から多くの蛮族が入ってくるようになる。ディオクレティアヌス帝は、帝国の衰えを食い止めるため、帝国を分割して統治する「帝国二分」を286年に実施する。次いで293年二つに分けた帝国を、さらにそれぞれ二つに分け東西に正帝と副帝を置く「四分統治体制(テトラルキア)」を完成させる。もちろん東の正帝であるディオクレティアヌスがすべての権力を握っていた。

・当時、アレクサンドリア教会のアリウスという司祭の教えが評判を呼んでいた。それは、「イエスは人の子である(神の創造物である)」、神とイエスを分ける教え。この教えは分かり易く瞬く間に拡がり、特に学問に無縁であった蛮族に大変受けた。しかし、アレクサンドリア教会は彼を破門した。アリウスは自説を曲げない、ここに最初の神学論争が始まった。

・313年、正帝であるリキニウスが「信教自由令」いわゆる「ミラノ勅令」を発布する。これは、その実態は別にして信教の自由が認められた記録としてキリスト教の歴史に残っている。

・325年、ローマ皇帝コンスタンティヌスは神学論争に決着をつけるべく、アナトリアのニカイアに有力なキリスト教会を集めて公会議を開く。この公会議ではアレクサンドリア教会のアタナシウスが主張する「三位一体論」が支持され、アリウス派の教えは異端として排斥された。

コンスタンティヌスは、三位一体説を正当と認めたこと、加えて教会を免税にしたことで、後世のキリスト教会から高く評価され「大帝」と呼ばれるようになる。しかし、彼は死ぬときにはアリウス派の司教から洗礼を受けている。

コンスタンティヌスは帝国を再統一すると、ボスポラス海峡バルカン半島側の突端にあったビュザンティオンという都市を拡大整備して新首都を造営した。これをコンスタンティノープルと名付けた。

・中国の諸王朝は、遊牧民に攻められると北を捨てて南に逃げた。長江の南に豊かな穀倉地帯があったから。ローマ帝国は西を捨てて東に逃げた。ローマ帝国の穀倉地帯はエジプトにあったから。

・380年、テオドシウス帝はキリスト教を国教にした。これはキリスト教のネットワークを統治に使うという一種の取引だったのではないか。ミラノ教会の司教アンブロシウスが、この国教化に暗躍していたのは事実。

・529年になるとユスティニアヌス帝が、アテネにあった「アカデメイア」というヨーロッパ最大の大学を閉鎖する。プラトンが開いたこの大学ではギリシアやローマの学問を教えていた。聖書以外のことを教えていると理由で閉鎖したのである。大学の先生たちは皆、東方のペルシアに逃げてしまった。そこには大学があったから。こうしてペルシアでギリシア、ローマの古典が教え続けられ、アラブ人が後に発見することになる。これがヨーロッパに逆輸入され「ルネサンス」が始まる。

・西方からやって来た蛮族の中で、最終的に西ヨーロッパの大部分を制したのは、現在のベルギー辺りから南下してきたフランク族だった。彼らの王さまは「クローヴィス」と言った。フランス語では「ルイ」。彼は奥さんに進められアリウス派と対立していた正統派(三位一体説)に転向した。これによりローマ教会は西方に安心して布教できるようになった。

ローマ教皇ローマ皇帝から自立したいと思っていた。そために後ろ楯になってくれる王侯がいないかと考えている頃に、フランク王国でクーデターが起こる。クローヴィス(ルイ)以来続いていたメロヴィング家が、その総理大臣であったカロリング家に乗っ取られてしまう。カロリングという名は始祖であるカール・マルテルから来ているが、この人は庶子であった。これはカロリング家にとって大きなハンディキャップ、実力で成り上がった次は正当性の根拠を求めた。力はあるけど権威がないカロリング家と権威はあるけど力のないローマ教皇が手を組んだ。教皇カロリング家の当主ピピン三世から領土をもらう代わりに、カロリング家の正当性を担保した。これが756年の「ピピンの寄進」

・こうして800年にピピン三世の子供フランク王のシャルルマーニュカール大帝)が戴冠したためローマ皇帝が二人になった。

・もともとは小国だったフランス(西フランク王国)が350年間、男の子が生まれ続けたために~これを「カペー家の奇跡」と言う~王家は断絶することなく、徐々に大きくなりローマ教会を支えるヨーロッパ一の強国になっていく。

 ・1077年「カノッサの屈辱」。グレゴリウス七世は叙任権問題で最も厳しくローマ皇帝と衝突した教皇。彼はザーリアー朝の皇帝ハインリヒ四世に対し世俗権力による聖職者の叙任を禁止する。ハインリヒ四世がこれを拒否すると、教皇は皇帝を破門した。ハインリヒ四世は、雪のカノッサ城の城門の外で立ち続け数日間謝罪して、ようやく破門は解かれた。これを「カノッサの屈辱」と呼ぶ。叙任権闘争は最終的にローマ教会側の主張が受け入られるまで(1122年ヴォルムス協約成立)長い年月を要した。

・教会改革にも熱心だったウルバヌス二世が教皇であった11世紀の終わり頃、キリスト教徒のエルサレム巡礼が圧迫を受けるようになった。そこで東ローマ帝国からの救援要請を受け、ウルバヌス二世はフランス中部のクレルモンでエルサレムへの進軍を要請する大演説をぶった。こうして俗に言う十字軍が始まった。しかし東方から見れば単なる「フランクの侵略」に他ならなかった。十字軍は第1回(1096~1099年)のみ成功する。それは、たまたまセルジューク朝が分裂状態にあったから。

・フランス王フィリップ四世は、教皇であるフランス人のクレメンス五世を脅して、強引にフランスのアヴィニョン教皇庁を作らせた。これが「アヴィニョン捕囚」。これは1309年から1377年まで続いた。

教皇庁が70年近くもフランスにあったのでアヴィニョンにも官僚群が育っている。彼らはローマに帰るのを拒みフランスに対立教皇を立てる。東西の教会が互いを破門して起きた大分裂を大シスマ、今回のフランスとローマの分裂を小シスマと呼んでいる。この分裂は1417年まで続く。ちなみに大シスマは、1965年にパウロ6世が修復するまで続いた。

ルネサンスが最盛期を迎えた頃、ローマ教皇レオ十世が贖宥状を発売する。これを批判したルターによる宗教改革が起こり(1517年)、ローマ教会は北欧、ドイツを失った。

・これをイングランドのヘンリー八世が見ており、イングランドもローマ教会から離脱して英国国教会を作った。

・こうしてローマ教会は、北欧、ドイツ、イングランドを失った。1545年から18年かけてトリエントで公会議を開き対策を協議。反宗教改革の旗手でもあったイエズス会を中心に新大陸(アメリカ、アジア)へ進出していく。

・20世紀に入って1962年から1965年まで、第二ヴァチカン公会議が開催され、ここでプロテスタント教会ユダヤ教会の積極的評価、信教の自由、東方教会との900年ぶりの和解などが確認された。

ローマ教会の三つの大きな特徴

(1)キリスト教の「one of them」である

(2)領土を持ってしまった教会である

(3)豊かな資金と情報を持っている

神聖ローマ帝国

ナチス神聖ローマ帝国を第一帝国、ビスマルクが創ったドイツ帝国を第二帝国、ヒトラーの帝国を第三帝国と呼ぶようになった。


第6章 ドイツ、フランス、イングランド

・三国は一緒に考えるとよく分かる。まずは英国という呼称について。正式名称は`United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland 。略称としては「UK」が一般的で、その訳である「連合王国」や古くからの主要な王国名である「イングランド」も使用される。「イギリス」や「英国」は日本だけしか通用しない。

フランク王国が東西フランク王国に分かれ、それぞれがドイツ(東)、フランス(西)へと変遷していく。10世紀から11世紀にかけて、ドイツ、フランス、英国の順に国家の体裁を整えていった。

カロリング朝の血統が途絶えてしまうと、東フランク王国ではザクセン族が息を吹き返し、オットーが国王になる(936年)。彼はローマ教皇から戴冠されローマ皇帝となる。これがドイツのはじまり。一方、西フランク王国は、ユーグ・カペーが987年にカペー朝を開く。これがフランスの元となる。

イングランドでは、いつもヴァイキングの格好の餌食になっていたが、ついに1016年デンマークからやってきたヴァイキングのクヌート大王がイングランドを占領した。なお、ヴァイキングとは「入江(vik)に住んでいる人々」

フランスと英国の成り立ちは一緒に考えると分かりやすい

 ・フランスのカペー家には350年間嫡男がずっと生まれ続ける。これを「カペー家の奇跡」という。継続は力なり、こうしてフランス王は少しづつ力をつけてくる。

 ・カペー家が成立する以前、ヴァイキングは、まずイングランドを占拠し、次にフランスに攻めてきた。当時のカロリング家のフランス王は、毒をもって毒を制するとの考えから、現在のノルマンディの地をヴァイキングに渡した。これがノルマンディ(北の人間の土地)と呼ばれる所以。そこでこの地に「ノルマンディ公国」が911年設立。ちなみに第二次世界大戦で連合軍がフランスに上陸したのもノルマンディ。

イングランドと呼ばれる大ブリテン島の南部地域は、ローマ軍が撤退した後、アングロ・サクソン人小さな王国をいくつも作っていた。これを制したのがデンマークから来たクヌート王(1016年)だったが、その後の混乱でノルマンディー公のギョーム(英語読みでウィリアム)が初代の英国王となってノルマン朝を開く。なお、イングランドとは、「アングル(アングロと同義)人の土地」を意味する言葉。

イングランド王になったウィリアム征服王は、同時にフランスの公爵、つまりフランス王の臣下だった。しかし、イングランド王はフランス王の臣下ではない。つまり、ノルマンディ公は、フランス王の臣下でありながら、対等のイングランド王でもあるという不思議な身分を持っていた。

イングランド王といいながらフランス語を話しお墓もフランスにあった。イングランド王とフランス王は親戚関係でもあった。それが1337年に始まった百年戦争により、英国とフランスは、はっきりと別の国になった。

ヴァイキングはもともと商人だった。フェアなトレードが成り立つときは商人であり、アンフェアなことをされたら海賊になる。


第7章 交易の重要性

・生態系とは、地理的にまとまっている一つの地域。気候もある程度一定で、人が住み距離的にも移動しやすい地域のこと。この生態系も、交通が便利になると、その領域が広くなる。また、生態系は横(東西)には広がりやすく、縦(南北)には広がりにくい性質を持っている。これは南北では気候の変動が大きく、東西ではほぼ同じ気候条件であるため、圧倒的に東西の方が移動しやすいという理由による。

・自分が住んでいる生態系の中に、必要なものがなかったら、それを外部から、持って来なければ仕方ない。だから、ないものを知恵を絞って手に入れることによって、自分の住む生態系を豊かにすることが、交易の本質である。生きるために、他の生態系と交わる、場合によっては新しい生態系に入っていく。これが交易、商売の秘訣。

・東から西への道は三つあった。一番北にあったのが「草原の道」で、モンゴル高原、ロシア大草原、ハンガリー大平原へと続くステップの道、馬で駆けていく遊牧民の道。その次が「シルクロード」これは砂漠を横切っていくオアシスの道、天山北路、南路などいくつかルートがあった。そして一番南が「海の道」、陸地の姿を見ながら進む、広東(広州)あたりから大陸に沿って南下し、インドの各地を経由してヨーロッパに入る。入るには二つのルートがあった。一つはペルシア湾ルート、ホルムズ海峡からペルシア湾を抜けて、メソポタミア地方からヨーロッパに流れていくルート。もう一つは、アラビア半島を迂回して紅海を通り、エジプトから地中海に流れる道。なお、交易量が一番多かったのは「海の道」、一番少なかったのは「シルクロード

ローマ帝国は、交易に積極的だった。絹や火葬に用いられる乳香や没薬(もつやく)などの東方の香料も好きだった。しかしキリスト教が国教になり土葬が中心になると需要は激減し「幸福なアラビア」(現在のイエメン)の時代は終わった。

シルクロードで主に運ばれた商品はおそらく人間。人間が一番運びやすくかつ価値があった。たとえば中央アジアの白人の女性を中国に連れていって、豪族や酒場に売ったと考えられる。シルクロードでもっとも重要だったのは奴隷貿易

・ユーラシアの交易は、豊かな東から貧しい西へと言う流れが長い間続いた。この流れが入れ替わるのは、アヘン戦争から。

モンゴル帝国滅亡の最大の原因は、ペストであったと言われている。ペストが中央アジアで発生したのは14世紀前半のこと。ペストは東方で猛威を振るったあと、黒海、地中海を経由して南イタリアに上陸しヨーロッパ全域に拡大した。ペストのかかって死亡すると皮膚が黒くなるので黒死病とも呼ばれた。


第8章 中央アジアを駆け抜けたトゥルクマン

・ユーラシアの大草原を代表する遊牧民といえば、モンゴルがよく知られているが、もう一つ忘れてならないのが「トゥルクマン」と呼ばれたテュルク系遊牧民。彼らの故郷は、モンゴル高原からカスピ海東海岸に至る広大なステップ地帯であった。今、その地域には数多くの共和国がある。

・552年に突厥(とつけつ)という国が柔然(じゅうぜん)を破り中央ユーラシアを制覇する。現在のトルコ共和国憲法では、552年にモンゴル高原で始祖ブミン・カガンが突厥の初代皇帝に即位した日を「建国記念日」にしている。突厥という漢字は、Turk(テュルク)の音写。

・この突厥は200年ほど覇を唱えモンゴル高原からカスピ海に至るまでの大領土を支配したが、744年に同じテュルク系のウイグルに滅ぼされる。ウイグルマニ教を国教にしたことで有名。このウイグルも約100年後の840年キルギスに滅ぼされる。

キルギスは強力な統一国家を作ることができずモンゴル高原は群雄割拠状態になった。ウイグルが滅んだあと、敗れたテュルク族は西に移動した。何千人、何万人という大集団(20ほどの大集団があったと言われている)ごとに移動していくわけだが、その先には交易で発達した都市があり、イスラム文化があった。この大集団にオグズと呼ばれた集団があり、後の王統のほとんどはこの集団から出ている。もともと原始宗教しか持たなかったテュクル人はイスラム教を知り感化されムスリムになった。このイスラム教に感化されて西に行った人々を、一般に「トゥルクマン」と呼んでいる。

・その頃中東を支配していたアッバース朝(750年に成立したバグダードを首都とするイスラム帝国)の力が弱まり、875年にサーマーン朝というペルシア系の地方政権が中央アジアに生まれた。サーマーン朝の人々は、今は放浪の身になっているトゥルクマンが戦争に強いことを知っており、しかもイスラム教徒であることから、子供を譲ってもらい大切に育て立派な戦士にしてからアッバース朝はじめとするイスラム諸国に輸出した。この取引は大成功し大量のトゥルクマンがマムルーク(奴隷の意)として売られて行き大きな戦力となった。

・10世紀末、オグズ集団の中からセルジュークという部族長が頭角を表す。当時隆盛を誇っていたガズナ朝に仕える人も出てきた。ガズナ朝はサーマーン朝のマムルークが軍政長官まで出世し、やがてサーマーン朝から独立してアフガニスタンのカブール近くのガズナに建てた王朝。後にインドまで勢力を広める。

・セルジュークの一族から、11世紀の半ば、トゥグリル・ベグが現れ1040年にガズナ朝を破って支配者となる。このトゥグリル・ベグの勇名を聞いてアッバース朝のカリフは、内紛の絶えないバグダードを鎮めてくれるように依頼した。その代わりにスルタンとして彼を認めるという条件で。スルタンとは、イスラム世界の世俗の支配者のこと。こうしてセルジューク朝が、弱体化したアッバース朝に替わってイスラム帝国を支えるようになった。

・ペルシアは昔から大帝国を作ってきた。イスラム教団に敗れても、官僚の家系は生き残ってきた。彼らは優秀な官僚として重宝され使われていた。そうして「トゥルクマンの武力」と「ペルシア人の官僚」というケンカは強いし行政もちゃんと出来るという黄金の組合せが完成した。

 

第9章 アメリカとフランスの特異性

 世界には、200近い国があるが、その中で一番特異で例外的な国は、アメリカとフランス。

アメリカは世界で一番ユニークな人工国家であると同時に、地理的条件に恵まれ、歴史という縦の軸と地理という横の軸が、これほど効果的に影響し合った例は世界史上でもまれである。アメリカの考え方はグローバルスタンダード的な面もあるが、アメリカを正しく認識するためには、アメリカはとても変わっており特異で例外的な国であることを踏まえる必要がある。

・「ワインも人間も生まれ育った地域(クリマ)の気候や歴史の産物」といった人間の当たり前の心情を断ち切った人工国家が世界に二つある。それがアメリカとフランス革命後のフランス。

アメリカの歴史は、1492年のコロンのバハマ諸島発見から、1620年のピルグリム・ファーザーズ(メイフラワー号でアメリカに最初に移住した英国の清教徒の一団)に一気に話が飛んでしまう。しかし、その間に130年の時間が流れている。この間、旧世界から持ち込まれた病原菌(天然痘など)が免疫のない新世界の人々をほとんど殺してしまった。メキシコだけでも約2500万人と推定される先住民がほぼ全滅したと伝えられている。植民地を経営しようにも労働力となる原住民がいなくなったため、アフリカから頑丈な黒人を連れてきた。

・1776年に独立宣言を採択したとき、よるべとすべき祖先も物語もなかった。ピルグリム・ファーザーズは原理主義的な人々であったため、原理主義的な理想が明文化されて、英国にはない成文憲法を成り立ちとする契約国家になった。今のアメリカを主導する人々は、俗にWASPと呼ばれている。ホワイトで、アングロ・サクソンで、プロテスタントの人々の意。憲法、契約のような人間の理性を国の根幹に置いている不思議な国である。

・このアメリカの独立戦争を応援して影響を受けたのがフランス。フランスには素晴らしい歴史や伝統があるのに、フランス革命がしだいに過激になり、ルイ16世マリー・アントワネットまで処刑してしまうなど過激に純化されてしまった。これはアメリカの影響だろう。

保守主義とは何か?「人間は賢くない。頭で考えることはそれほど役に立たない。何を信じるかといえばトライ・アンド・エラーでやって来た経験しかない。長い間、人々がまあこれでいいじゃないかと社会に習慣として定着したものしか信じることができない」この経験主義を立脚点として「これまでの慣習を少しずつ改良していけば世の中はよくなる。要するに、これまでうまくいっていることは変えてはいけない。不味いことが起こったらそこだけを直せばいい」という考え方(近代の保守主義)が、人工国家に対する反動として生まれた。

・真の保守主義にはイデオロギーがない。「人間がやってきたことで、みんなが良しとしていることを大事にして、まずいことが起こったら直していこう」これが保守の立場。フランス革命アメリカ革命はイデオロギー優先、「自由・平等・博愛」とか「憲法」を旗印にしている。それは頭で考えたら正しくて素晴らしいに違いないが、やはり人工国家で限界がある。

・人権というかなりデリケートで国によって様々なニュアンスを持つ問題を、公の場で平気で言ってしまうところに、アメリカという国の特異性がある。アメリカとフランスが、外交などでよく対立するのも、近親憎悪の一種かもしれない。その対立は理念や理屈によるところが多かった。実利を重んじて行動を優先させることが、むしろ普通の外交。アメリカとフランスの場合、なぜ理念が表に出るかというのは、国の成り立ちが大きく影響している。

・今のアメリカの強みは、世界中から優秀な留学生を集める力があること。現在100万人近くいる。アメリカの大学では授業料で300万円、生活費も入れれば、400~500万円必要になる。もし2年学ぶとすると1000万円、それが100万人いるとして、それだけで10兆円の有効需要が生まれる。これはGDPの1%に相当。

 

第10章 アヘン戦争

 西洋のGDPが東洋を凌駕したのは、アヘン戦争以後のこと。アヘン戦争は東洋の没落と西洋の勃興との分水嶺だった。

 ・東洋と西洋のバランスが崩れたもともとの原因は、大明暗黒政権、朱元璋による明の鎖国政策にあったが、現実に勢力のバランスが逆転したのはアヘン戦争。清国政府は1796年にアヘンの輸入禁止令を発出して以来、たびたび禁輸令を出すが、賄賂に慣らされた役人も多く輸入量が増大。それに伴って中国の銀が大量に流出し悪性インフレが起こった。事態を重く見た政府は林則徐を広東に送り込み、何とか密貿易を止めさせようとしたが、1840年英国は本国から海軍を呼び寄せ戦争を仕掛けた。その結果、南京条約という不平等条約を結び、1842年英国と講和する。清国は英国に多額の賠償金を支払い、香港を割譲した。

・現在世界的に有名なインドのダージリンティースリランカの紅茶は、すべて英国が中国から盗み持ち込んだもの。お茶が盗まれたことは、中国弱体化の象徴そのものだった。

・林則徐と明治維新は意外な関係がある。彼は広東に行く前、北京中の洋書を買い漁り、学者を同行させ本の内容を口述で伝えさせた。その後、戦争が始まり清国政府から罷免されて新疆のウルムチに飛ばされる際、彼は友人の学者に集めた洋書をすべて預け頼んだ。「私は外国語は読めない。けれどもこの文献に書かれた内容は耳で聞いただけでも役に立った。これらの洋書を感じに翻訳してくれ。きっと後世、西洋に立ち向かうときに誰かの役に立つ」。この本は、日本でも、佐久間象山吉田松陰など、明治維新の志士たちの経典になった。維新の志士たちは、この本で世界の現状を学んだ。明治維新派ある意味、林則徐のリベンジであったという人もいる。

アヘン戦争により、中国のGDPのシェアは32.9%から、17.1%まで落ちた。インドは18世紀までは20%台、それまでの中国やインドのGDPがいかに桁外れに大きかったかがわかる。過去の歴史を、GDPと人口と気候変動という視点から見つめ直すことも新しい発見につながる。

 

終 章 世界史の視点から日本を眺めてみよう

・動物としての人間が一番頑張れるのは、20代から50代のだいたい20~30年。国や共同体も、そのピークはやはり20~30年。

ローマ帝国では、五賢帝の時代(約100年)を、ローマの平和=パックス・ロマーナと呼んだりしているが、実際はその間ずっと繁栄が続いたわけではない。世界の歴史を見ていくと、「豊かで戦争もなく、経済が右肩上がりに成長していく本当に幸せな時代」は、実はほとんどないことがわかる。

・なぜ、日本に戦後の高度成長が生まれたか?1945年当時、戦勝国アメリカのアジア政策のパートナーは北京の蒋介石だった。ワシントン・北京枢軸という考え方でアジアの秩序を確立するという方針。日本はただの敗戦国でしかなかった。ところが、東西の冷戦が始まって蒋介石は北京から台湾に追い出され、北京は毛沢東が支配することになった。アジアに残されたアメリカのパートナーは日本しかない。しかも日本列島の位置を見れば冷戦最前線のまさに不沈空母。こうして図らずも東京がアメリカのパートナーとなった。

・日本は海外の領土を失ったので、たくさんの人が引き揚げてきた。平和になったので子供もたくさん生まれた。会社や役所の幹部もマッカーサーが戦犯として年長者を追放したため、30~40代に若返り風通しがよくなった。ドッジ・ライン(財政金融引締め政策)で民間が頑張るしかない。為替も360円に固定された。さらに朝鮮戦争が起こって特需も生まれた。アメリカが世界の海を支配していたので原料輸入にも支障がない。加えて吉田茂という賢いリーダもいた。これにより経済が急回復した。

・日本の繁栄は「毛沢東のおかげ」とも言える。もし蒋介石が北京に残っていたらアメリカは日本など歯牙にもかけなかった。しかも毛沢東は長生きし、大躍進や文化大革命など多くの失敗を犯してくれた。これにより中国は中々立ち直ることができず、日本はアジア唯一の工業国として繁栄を独占できた。

・このように戦後の日本は特別だった。幸運の女神が五回くらい連続でウインクしたくらい幸運が重なったのが戦後の日本だったと思うべき。