2020.5. 2「知識経営のすすめ」野中郁次郎、紺野登

「知識経営のすすめ」野中郁次郎、紺野登

この本は、半年前に読んだ本である。少し読み返しながらポイントを備忘録的に記してみる。

<目次>

第1章 情報から知識へ
第2章 21世紀の経営革命
第3章 第五の経営資源
第4章 「場」をデザインする
第5章 成長戦略エンジン
第6章 創造パラダイムの経営

まず、この本を読むうえで一番のポイントは次のような定義というか視点だと思う。

「ナレッジワーカー」とは、いわゆる「間接部門」としてのホワイトカラーではなく、価値を生み出す「直接部門」としての人や組織である。

以下に各章ごとのポイントをまとめる。

 

第1章 情報から知識へ

・知識の経済的特性

(1)減らない 

 知識は財として使っても減らない。逆にノウハウや特許などは「使わないと減る」=陳腐化する

(2)移動できる

 知識は人的ネットワークによる共有、あるいは人と共にその境界を越えることの出来る移動性の資源である

(3)使うは創る

 生産と使用が分けられない。活用と生産が同時に行われる。知識を創造する人と使う人が役割分担で完全には分けられない。つまり相互作用で知識が生まれるということ

ここから顧客は消費者でなく知の生産者という観点が重要になる

(4)意味の経済

 知識は新しい組み合わせ、または分類によって意味が変わる。製品やサービスにどのような意味を与えられるかで業績や事業価値が左右される

・知識資産は測定できない。が、時価総額の大きさを知識資産の市場からの評価として捉え、有形資産との比で代替的指標の一つにすることはできる。ブランドも知識資産の一つである。

 

第2章 21世紀の経営革命

あらためて知識経営とは何か、それは

「知識に基づく経営、つまり戦略・組織・事業など、経営のあらゆる側面を知識という目でとらえ実践する考え方」

・現在の産業を動かす基本的欲求は、物質的でなく、知的・情緒的欲求である。

・日本では、「日本的経営」と呼ばれた終身雇用などの仕組みによって間接的に組織内の個人の知識を維持・活用できるシステムを構築してきた。しかし、それでは対応できなくなってきている。

・知識から価値が生み出される。価値が生み出される際には、知識が「創造され、共有・移転され、そして活用される」、このプロセスを通じて知識から価値が生まれる。

・こうして価値を最大化するための「プロセスのデザイン、(知識)資産の整備、(情報システムなどの)環境の整備」といった一連の経営活動が必要になる。そしてこの活動を進めるための組織構造も重要になる。

ナレッジマネジメント四つのタイプ

ナレッジマネジメントの多くは、知識資産の共有から始まる。基本的には個人レベルの知を組織的に集結・連結して活用し、その単純な総和以上のものを発揮しようとするのが狙い。これらは二つの軸で分類できる。

①目的という軸による分け方・・・「改善志向」か「増価志向」か

②手段による分け方・・・「資産集約志向」か「資産連携志向」か

「改善」とは、知識資産を共有、活用して業務運営効率などを高めること

「増価」とは、知識資産からの収益創出、あらたな価値の増分が目的

「資産集約」とは、分散している知識資産を組織的に集約すること。この場合知識資産は「形式知」が中心になる

「資産連携」とは、知識資産を共有するため組織内外での様々な知識ワーカーや顧客との関係性やネットワーキングに努力を払うこと。この場合の知識資産はいわゆる「暗黙知」まで含めた話になる


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図 ナレッジマネジメントの4つのタイプ(「知識経営のすすめ」から引用)

 

以上の二軸の組み合わせから次の4タイプが出てくる。

(1)ベストプラクティス共有型(改善×集約)

 ・過去の問題解決法の共有

 ・業務の重複排除、ベストノウハウ複製による時間、コストの削減

(2)専門知ネット型(改善×連携)

 ・社員、専門家の知識のディレクトリー化

 ・適材、適所、適時に結合

(3)知的資本型(増価×集約)

 ・知識資産を把握、活用、展開するための分類の組織的方法

 ・ポートフォリオフレームワーク

(4)顧客知共有型(増価×連携)

 ・顧客との知識共有、知識提供の場づくり

知識経営責任者(CKO)の役割

①知識問題の早期発見

②対処的ナレッジマネジメント・プログラムの提言・指導・実践

③戦略的に意義のある知識資産の継続的開発

④知識経営に適した情報環境などへの支援

⑤経営戦略に相応しい知識戦略と組織文化の醸成

 

第3章 第五の経営資源

知識とは「信念」である

・まず、知識は情報ではない。知識は、私たちにとっての行動指針、問題への処し方、判断や意思決定の基準、さらには生きるために必要な実践的方法といったものとして存在する。

・知識には少なくとも二つの部分がある。日本語も「知」と「識」の二語からできている。ひとつは、「何々すればこうできる」という方法論的なもの、いわば「知」に当たる部分。もうひとつは、材料とか特定の事物について博識であること、「識」に当たる部分。

・知識とは、個人や組織(集団)が認識・行動するための、道理にかなった秩序(体系・手順)であるといえる。「行動のための能力」という知識の定義もある。

・知識とは、「正当化された真なる信念」、つまりその知識を持つ人にとっては、これまでのところ正しい、「真」だと、そのように信じていること、だといえる。

・一般的な区分でいうと、「データ」、「情報」、インテリジェンス」、「知識」、「知恵」といったピラミッドになっている。

「データ」は数値、記号

「情報」はデータから構成された意味や意義

「知識」はそうした情報を認識し行動に至らしめる秩序

「知恵」は知識を現実に適応させて得られた成功事例集…

ドラッカーは、「知識は基本的に人間依存、人間の頭・体の中にある」と考えていた。したがってインターネットでは知識を流通させることはできない、知識ワーカーがインターネット経由で活用するのは情報以外のものではない、ということになる。

・知識には「人間の中にある」面と、情報のように「流通できる」面の二つがある。これが情報と知識の境目の曖昧さになっている。

・一般的に知識は、「個人的で主観的」と「社会的で客観的」という二つの側面に分類できる。哲学者M・ポラニーは、「暗黙の語りにくい知識(暗黙知)」の側面を、「明示された形式的な知識(形式知)」に対するものとして提示した。

・人間は、この二つの形態で知識を有しているからこそ、能動的に生きることが出来る。基本となるのは暗黙知であるが、この暗黙知には最大の問題がある。それはその知識を持っている本人自身が体系的に理解できない、場合によっては知識を持っていることを「知らない」ということ。言語化できないから暗黙知と呼んでいるのではあるが…

言い換えれば、私たちは「語れる以上のことを知っている」ともいえる。

知識創造のプロセス

知識創造のプロセスは、暗黙知形式知からなる相互作用で説明される。つまり、主観的で言語化・形態化困難な暗黙知と、言語または形態に結晶された客観的な形式知の相互変換であり、その循環的プロセスを通じた「知識の質・量の発展」である。

「SECIモデル」・・・四つの知識変換パターン

①共同化 暗黙知をもとに新たに暗黙知を得るプロセス

 ・接触、場、経験の共有 →新たな知識を体感する

 ・歩き回り経営、フェイス・トゥ・フェイス

 ・「暗黙知の蓄積」「暗黙知の伝授や移転」

②表出化 暗黙知をもとに新たに形式知を得るプロセス

 ・イメージや情感、思いを、言語や図像に表す

 ・暗黙知から形式知への変換、翻訳

 ・個人と組織の相互作用関係が重要

③結合化 形式知をもとに新たに形式知を得るプロセス

 ・形式知の結合(すでにある形式知から新たな形式知を生み出す)

 ・他部門、外部からの形式知の獲得、総合

 ・意味情報の共有だけでなく、周辺の文脈を共有することが重要

 ・グループ間、部門間が基本単位

④内面化 形式知をもとに新たに暗黙知を得るプロセス

 ・内面とは自己の内面、形式知暗黙知にするプロセス

 ・組織的に形式化された知識を自分自身のものとして採り入れること

 ・行動、実践を通じて身体化すること OJTやノウハウ研修など

こうしたプロセスは一回切り回転するのでなく、組織の業務において、日常的にスパイラル状に繰り返されることが肝要

・SECIでは、個人に発し、個人に帰るというプロセスが螺旋的に繰り返される。

 当初の自分の想いが、共体験(共同化)を通じて言葉になり(表出化)、コンセプトになる。それが集団に共有される(結合化)。

さらにそれが正当化され、、スペック、マニュアルに展開され、組織の”知”になる。

それを実現するために、すべての人が実践を通じて、この”知”を自分のものにする(内面化)。

この一連のプロセスを通じて個人の存在は一周り二周りも大きくなっている。

ここでは個と組織は、従来の経営の概念における対立項ではなくなる。

・知識は「真・善・美」を追求するものである。

 ・多くの企業では、組織内に必要な知識が断片化して存在している。それらの知識は、適切な時と場に配置されていなかったり、組織の「壁」によって共有が阻まれている。

・知識は、社員個人に属していたり、顧客のうちに構造化されない状態で存在したりしている。また、社員個人ではなく、集団や人の「つながり」がそうした知識を持っているかもしれない。「トラスト(信頼)」や「ケア(配慮・思いやり)」といったものも「つながり」の中に存在している知識資産だといえる。

・資産というものは、そもそも「事業活動に供されるものであり、利益の創出にとって不可欠な、企業独自の財産」である。

・知識資産の分類には、次の三つの方法がある。

 ①構造的分類 「知識資産はどこにあるか」を見るための枠組み

 ②機能的分類 「どんなタイプの知識資産か」といった視点

 ③意味的分類 その企業の「知識ビジョン」やコンピタンスに基づく

①構造的分類

市場知識資産(市場・顧客知)…企業が市場活動をつうじて獲得蓄積した資産(市場知)

・組織的知識資産(組織・事業知)…個の知識ワーカーあるいは組織として獲得蓄積した資産(組織知・人間知)

・製品ベース知識資産(製品・科学知)…製品(モノ)にまつわる知識資産(製品知)

②機能的分類 

・経験的知識資産(経験・文化・歴史)…経験として蓄積・共有された独自の知識資産[暗黙知の占める割合大]

・概念的知識資産(コンセプト、ブランド、デザイン)…知覚・概念・シンボルなどの知識資産

・定型的知識資産(ドキュメント、マニュアル、フォーマット)…構造化された知識資産[形式知の占める割合大]

・常設的知識資産(実践法、プログラム、ガイド、教育システム)…組織的制度、仕組み、手順で維持された知識資産

③意味的分類

・これには定型的な分類はなく、ケースバイケース。ただし、それは企業の知識に対するビジョンやコンピタンス、知識ワーカーの業務についてのメンタル・マップなどを前提としている。

・「図書館的」分類、ヒエラルキー型分類、要因分解型分類などがある。

・知識マップは、視覚化された系統樹、ネットワーク図などによって表現することが可能。知識マップは、企業がその知識資産を把握し活用する際のガイド、あるいはナビゲーターの役割を担う。

知識経営のダイナミクス

知識経営の基本的枠組みは、「知識資産活用プロセス」と「知識創造プロセス」を「場」を介してダイナミックに連動させることにある。この知識経営のダイナミクスは、単なる形式知の共有や情報検索の仕組みといったものからは生まれない。暗黙知も含めた組織的な意識付け、組織のデザイン、すなわち「場づくり」によるところが大きい。

 

第4章 「場」をデザインする

・「場」とは次のように定義できる。

 共有された文脈、あるいは知識創造や活用、知識資産記憶の基盤(プラットフォーム)になるような物理的・仮想的・心的な場所を母体とする関係性

・なんの事かわからないが、ここで重要なのは「文脈」と「関係性」。みんなが集まって知を創る、その場のこと。

・ここでいう「文脈」は英語で言うと「コンテクスト」、その場にいないと分からないような脈絡、状況、場面の次第、筋道などを意味している。それにその場に関わる人々の関係性。これらが、組織やコミュニティの個々人が集う場所、情報を交換するような場所(仮想空間も含めて)において形成される。それが知識の共有や創造にはなくてはならないものである、ということ。

・場が重要なのは、知識が物質的な資源とは異なり、無形だから。知識は状況、場面、空間との結び付きが大きい。知識という資産を活用するには、ある空間の、ある時点にそれが使えるようにしないといけない。この「場」という、時間・空間・人間の関係性において、知識が共有され、創造され、蓄積され、活用される。

知識資産の活用プロセスと知識創造プロセスをダイナミックに結びつけ、連動させるための媒介となるプラットフォームが「場」である。

・ここで使われる「場」で重要なのは、物理的空間よりは社会的な関係性、人々やグループ内で共有される知識の文脈である。したがって日本語の「職場」として使われる「場」に近い。

・「場」は「経験の生まれたところ」として理解される。「場」は知識の成り立ちと深く関わる。知識には、暗黙知形式知の両面がある。暗黙知は身体的・感覚的な環境との交わりから生まれ、身体的共経験を介して伝達される。したがって暗黙知は本質的に「場」とは切り離せないもの。形式知はその暗黙知から言語化される。知識がこうして生まれる形式知暗黙知の双方によって成り立つなら、知識の活用や創造にとって「場」は根本的要素となる。

・知識の根っこは主観的な暗黙知で、それを形式化、構造化した形式知まで含めて、知識は極めて人間依存のもので、それは情報とは異なる。

・知識は、知識が持つ文脈、状況を補うことで外部に伝達したり、記録したり出来るようになる。

・「場」にはSECIに沿って四パターンある。

①共同化:創発

 「個」と「個」の対面、共感、経験共有が基礎になる。「物語」「エピソード」「手柄話」といった情報交換が暗黙知の共有・移転を促す。こうした物語を誘発する「劇場性」(演出)が求められる。

・場所が暗黙知を共有させる媒介としてデザインされていることは、場の空間として重要である。これは「アフォーダンス」の概念にも関わる。アフォーダンス知覚心理学のJ・ギブソンが提唱したもので、「環境の中には人間の行動を誘発するような情報が含まれている」という視点。たとえば、ゆったりとした大地の窪みは、私たちを横にならせるように「誘う」。これはその場所がそういう「身体文化的」な情報を有しているからだという考え方。

②表出化:対話場

 概念創造の場。各自が暗黙知を対話を通じて言語化・概念化していくための場。ここでは、メタファーや、概念抽出の方法論などが有効になる。

③結合化:システム場

 ここでは形式知を相互に移転、共有、編集、構築する機能が重要なエッセンスとなる。

④内面化:実践場

 形式知暗黙知として取り込んでいくための場。たとえば学習の場、企業大学のような研修のための場といった制度的なものも含まれる。または、アドホックな場、たとえばOJTや顧客への商品説明といった場面もある。

・知識経営のダイナミズムを三つの層で考えることが出来る。①SECIプロセス ②知識資産 ③場、の三層。ここで場は、知識創造のプロセスと知識資産を結合させ、動的にするという役割を担っている。

・個々の場のパターンが、特定の知識資産と関わりを持つ。場所と記憶には関連性がある。人間の脳の働きからみても、場と知識と結びつけて活用することには意味がある。場を通じることによって、組織が暗黙知を伝達・醸成したり、共有することが可能になると言える。

・場は、文脈・脈絡、参加者の関係性からなっている。

 

第5章 成長戦略

・企業に優位をもたらすための競争と成長の原動力は、官僚的な組織やヒエラルキーの頂点に立つ戦略部門ではなくなっている。原動力は、特定のグループ、特定個人の社内外の関係、プロジェクト・チームや最前線の顧客チーム、トップ経営者間のやや私的なサークルなどにある。

ここでいう「組織」とは「知識を創造していくところ」であって、「管理」のための組織ではない。

・今までの組織は、個人の情報処理能力を克服する手段であり、そのために階層を作り、分業を作り、専門化するという理論であった。つまり、人間が越えることのできない「認知限界」を克服するために組織はあると考えられ、構造化されてきた。

・知識経営の考え方では、組織とは「自己を超越するプロセス」といえる。皆が成長したい、という共感に基づいて組織が自己超越の場となる。

・企業が知識を糧に価値を生み出すやり方には二つの面がある。

①あらたな知識を創出し、その「増分」を価値とする、知識創造・革新戦略。ここでは、個人や集団、部門が適時適所で知識創造を行えるようにすることが課題となる。

②すでにある知識を効果的に応用、活用して価値を生み出す、知識資産・増価戦略。ここでは、組織的な知識の統合が課題。

 このような組織の運営や設計に重要な切り口となるのが「場」である。

・知識経営を「知識の創造・浸透・活用のプロセスから生み出される価値を、最大限に発揮させるための、プロセスのデザイン・資産の整備・環境の整備、それらを導くビジョンとリーダーシップ」と定義した。これは言い換えれば「場のリーダーシップ」といってよい。

・マネジャーとは管理、分析、効率、構造をその成分とするが、リーダーは触媒、創造、価値、ビジョンなどがその成分である。

・ナレッジ・プロデューサーに必要な三つの資質(場のリーダーシップ)

利他的であること。知識を独占しようとしたり、他者の成果を我が物にすることはその対極にある。

「明るい」こと。否定的な考え方や感情を廃し、創造的・発展的な思考力、創造力、行動力を持つこと。すぐに「できない」を口にすることはその対極にある。

知識に対する感覚暗黙知にはなかなか言語化・形態化されないグレーゾーンが多い。こうした暗黙的側面の強い知識の内容を掴み取る動物的能力が肝要。それは「場」に関する直覚的理解といえる。

・19世紀末の企業の8割が20世紀に生き残れなかった。

・ハードに意味がないのではなく、ハードを使って何かを成す、その知識やノウハウ全体が大事で、ハードはその世界への入場券。

2020.4.29 「科学の扉をノックする」小川洋子

著者も書かれているが、私も新聞の科学記事を読むのが好きだ。気に入った記事はエバーノートに保存して読み返している。脳科学天文学、自然科学、医学、動物学何でもありで楽しんでいる。

この本も、まさに著者の興味の赴くままに7人の科学者を訪ねて行きインタビューしたもの。インタビューの内容も楽しいが、書かれている文章が軽快かつ絶妙で、つい笑顔になりながら読んでしまった。

世の中、コロナウイルスで重苦しい空気が漂っている中、読後には清涼感を味わうことのできた一冊。

特に印象に残ったのは、竹内先生が語る植物のような動物のような粘菌の話。さらに遠藤先生のインタビューから見えてくる氏、というか「遺体科学」の謙虚さ、自分が生きている間には成果は出ないけど、「将来に可能性を残す」、なんという謙虚な学問だろう。

2020.4.12「仕事に効く教養としての『世界史』」出口治明

またサボってしまいました。久しぶりにブログをアップします。

今回は、私の大好きな出口さんが5年前に書かれた世界史の本(世界史の入門書と言っていいと思います)を改めて読み、心に残っているポイントを備忘録的に記録したいと思います。

まずは目次から

第1章 世界史から日本史だけを切り出せるか

 ──ペリーが日本に来た本当の目的は?
第2章 歴史は、なぜ中国で発達したのか

 ──始皇帝が始めた文書行政、孟子の革命思想
第3章 なぜ神は生まれたのか。なぜ宗教はできたのか

 ──キリスト教と仏教はいかにして誕生したのか
第4章 中国を理解する四つの鍵

 ──中華思想諸子百家遊牧民対農耕民、始皇帝
第5章 キリスト教とローマ教会、ローマ教皇について

 ──成り立ちと特徴を考えるとヨーロッパが見えてくる
第6章 ドイツ、フランス、イングランド

 ──知っているようで知らない国々
第7章 交易の重要性

 ──地中海、ロンドン、ハンザ同盟、天才クビライ
第8章 中央アジアを駆け抜けたトゥルクマン

 ──大帝国を築いたもう一つの遊牧民族
第9章 アメリカとフランスの特異性

 ──人工国家と保守と革新
第10章 アヘン戦争

 ──東洋の没落と西洋の勃興の分水嶺

終 章 世界史の視点から日本を眺めてみよう

■備忘録

はじめに

キッシンジャーの言葉「どんな人も生まれた場所を大事に思っている。自分の先祖を立派な人であってほしいと思っている。人間も、このワインと同じで生まれ育ったところの盧気候や歴史の産物だ」

 

第1章 世界史から日本史だけを切り出せるか

奈良時代(7世紀)の日本にとって世界とは、韓半島と中国のこと。当時の倭は、中世のスイスのような一種の傭兵国家ではなかったか。スイスの場合、その名残がヴァチカンの法王庁の警備を担っているスイス兵。

・隋、唐という大帝国は五胡十六国の中から生まれた。鮮卑(せんぴ)という遊牧民の中の拓跋部(たくばつぶ)という有力部族が最終的に樹立した国家。ローマ帝国に侵入した諸部族の中で、最後にフランク族が残ったのと似ている。

拓跋部は、男女同権的な民族であったため実質的に唐を支配していた武則天に代表されるように女性で頑張った人が多くいる。

奈良時代に日本で女性が活躍したのは、このようなロールモデルが周辺世界にあったから。日本のスタートアップに関わるキーパーソンは「讃良(持統天皇)、藤原不比等光明子安宿媛)の3人。

・鉄砲は1543年に種子島に漂着したポルトガル人が伝えたと言われている。しかし今では倭寇の親分でもあり博多商人とも親交のあった王直という中国人の船に、ポルトガル人が乗って種子島にやって来たことが明らかになっている。

倭寇の実体は、中国や韓半島、日本の海に生きる人たちの連合共和国、台湾や五島列島とか権力の及ばない島を根城にして海で暮らしていた人たちが作った自由な共和国だったのではないか。

・ペリーの来日の目的は、捕鯨船の補給基地ではなく、大英帝国と争っていた対中国貿易のための太平洋航路の中継地点を獲得することだった。

・当時、欧米の金銀比価は15対1だったが、日本は4.65対1程度だったため、日本に大量の銀が流入し、その代わり大量の金が流出した。為替はゼロサムゲームであるから日本はどんどん貧しくなる。

・人間は交易によって豊かになる。交易は必ず双方を豊かにするのでずっと昔から行われてきた。交易こそが世界を繋ぐキーワード。人間の歴史は、一つの世界システムであって5000年史ひとつしかない。文字が生まれてから約5000年

 

第2章 歴史は、なぜ中国で発達したのか

・歴史が後世に残るには、文字を作るだけでなく、何を筆写材料にしたかが大きく影響する。東漢後漢)の時代になって蔡倫という人が「紙」という革命的な筆写材料を完成させた。

 ・四大文明の中で歴史が一番よく残っているのは中国。中国の歴史を発展させたのは紙の発明の次に秦の始皇帝が始めた「文書行政」である。

・中国で実在が確認できる最古の王朝は「商(殷)」、紀元前17世紀から紀元前11世紀まで約30代、600年間存続した。この時代に使われていたのが甲骨文字であり、この文字を書ける職人を国が独占していた。

・商の後、周という国に代わっても同様。ところが紀元前770年頃に周王が殺され国が亡びると、字を書ける書記「金文職人」と呼ばれたインテリたちは職を失い、地方の領主のところに散っていった。これにより広く漢字が流布した。フランス革命のとき、ブルボン朝の料理人がクビになってフランス料理店を開いたのと同じことが中国でも起こっていたということ。

・世界で文献がもっとも残っているのは、中国とイスラム世界だと言われている。

・商から周への王朝交代は画期的な事件であった。商の時代は祭政一致だったが周になると天空の支配者と人間界の支配者が分離しだした。その後、儒教を大成した孟子が「易姓革命」という理論を作った。これは「主権は天が持っている」という理論。悪い政治に対し、まず天が合図して、それでも言うことを聞かなければ天命によってによって王朝が革(改)まる、王朝の姓が易(かわる)という革命思想である。

・紀元前500年頃に地球が暖かくなって、鉄器が広く普及したという事実はとても重要。高度成長期が世界規模で訪れた。衣食が足り余裕が生まれる。ソクラテス孔子ブッダ、など偉人が一斉に現れた。

・権力の守り方には2種類ある。貴族制と官僚制。貴族制は「領地をやるから、その代わり俺を守れ」、貴族制は所領安堵のためロイヤリティは高い。しかし賢い子供が生まれるとは限らないのが欠点。官僚制は、一代限りで優秀な人材を王様が集める。必ず優秀な人が集まるけれども、ロイヤリティは生まれない。優秀なだけに「こいつを殺して俺が王様になろうか、と思うリスクがある。

科挙という全国統一テストが、なぜできたかというと「紙」と「印刷」技術があったから。参考書が全国に行き渡らないと試験は実施できない。技術が制度にいかに影響を与えるかの好例。

第3章 なぜ神は生まれたのか。なぜ宗教はできたのか

・20~15万年ぐらい前に、アフリカのタンザニアにある大地溝帯のサバンナで「ホモ・サピエンス」が誕生した。その中の冒険心に富んだ人がステーキを食べたいと、ユーラシア大陸に出て行った。ユーラシアを東に進みさらに北上してベーリング海峡を渡り南アメリカの先まで広がっていった。これが「グレートジャーニー」と呼ばれる。これは化石を調べると、大型草食獣の骨が激減する時期とホモ・サピエンスの骨が出始める時期がほぼ一緒ということからわかる。

・ところが人類は1万3千年ほど前、突然「獲物を追いかける生活はやめたい。俺は周囲を支配したい」と考え始める。これを「ドメスティケーション」domesticationと呼んでいる。自分が主人になって、世界を支配したい。植物を支配するのが「農耕」、動物を支配するのが「牧畜」、金属を支配するのが「冶金」、さらに自然界のルールをも支配したいと考え出す。これが神につながったのではないか。

・紀元前8000年、9000年代の西アジアの遺跡から、用途の説明が付かない土偶が現れる。赤ちゃんを産む神秘的な力を持つ女性を象徴したような土偶など。この頃から人類は神について意識し始めたのではないか。

・人間の頭は、人間に似たものしか考えられない。そこで神様の姿形が生まれた。

・宗教は本質的、歴史的に「貧者の阿片」である。不幸な人々の心を癒す阿片。宗教は現実には救ってくれない、しかし心の癒しにはなる「貧者の阿片」。現世とあの世を分けて、あの世では救われるという宗教のロジックは、非常に分かりやすく納得できるロジック。

・世界の暦のほとんどは「太陽太陰暦」。1日は太陽、1年も太陽。その間に月の満ち欠けをプラスした。月だけではずれてしまうため、うまくバランスのとれる「太陽太陰暦」に収束した。

・1年を越える時間も真っ直ぐに流れていくもの、という概念が生まれた。ギリシャ神話の「スフィンクスの謎」。朝は四つ足、昼は二本足、夜は三本足で歩くのは?答えは人間。

・直線であれば始まりと終わりがあるはず。始まりは神様が世界を作った時、では終わりはいつだろう?と考えるのは自然なこと。紀元前1000年頃にペルシャの地にザラスシュトラツァラトゥストラゾロアスター)という天才が現れ新しい概念「世界の始まりは神が作った。世界の終わりは人間がやって来たことを神が審判し決める」を考え出した。

ツァラトゥストラはドイツ語読み、ゾロアスターは英語読み。哲学者ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」で有名。リヒャルト・シュトラウスにも同名の曲がある。

セム語族の中のヘブライ人(ユダヤ人)が独占欲の強い嫉妬深い神を生み出した。これがセム的一神教といわれる宗教グループの始まり。ユダヤ教から始まり、キリスト教イスラム教、すべて同じ神。ヘブライ語ではYHWHと表現されていて、ヘブライ語は母音がないのでなんと読むか定説がない。一応「ヤハウェ」と呼んだりしている。時間を直線的に捉えるグループの中からセム的一神教が生まれキリスト教イスラム教に代表される一神教に代表される大木に育った。

・直線的に流れる時間という概念の一方で、「回っている時間」という考え方も生じてきた。時間は回っていて、生命も回っている、という考え方。これがインドで生まれた「輪廻転生」という考え方。時間を循環する円環で捉える宗教の代表が仏教だろう。

・神様は全知全能、オールマイティである。しかし本当に困っても悲惨な状況になっても何故助けてくれないのか?この問題はセム的一神教の弱点かもしれない。この問題に答えを出したのも天才ザラスシュトラ。彼は「善悪二元論」、つまり時間軸で解決した。全知全能の神様が世界を作った、これがスタート。最後は神様が最後の審判を行い正邪を分ける。それまでの間は正しい神と悪い神が戦っている、善と悪の闘争期間。悪い神様の勢いが強い時は悪や悲惨が蔓延っているように見える。分かり易い!

・この善悪二元論は、ゾロアスター教から分かれたマニによって大成された。マニは3世紀半ばのサーサーン朝ペルシアの人でバビロニアに生まれた。ゾロアスター教を元に、キリスト教と仏教の要素を加えてマニ教を創始。この教えは広く行き渡り、知識人を中心に大きな影響を与えた。キリスト教の中にも二元論が根強く残っている。

・古代の物語ほど新しい(最後に書かれる)のは、世界共通の真理。

・清く正しい貧しい人々は、ともすれば、狂信的になりやすく、偏屈になりやすい。

キリスト教が生まれたのは、初代皇帝アウグストゥスの時代のローマ帝国ローマ帝国ギリシャの神をそのまま祀っていたが、支配階級はストア派の哲学を信奉していた。これは無神論に近い極めて道徳的欲求の高い哲学。いおおぷローマ市民は、二つの宗教を信奉していた。一つはペルシアから来た「ミトラス教」、もう一つはエジプトから来た「イシス教」

・ミトラスは太陽神。冬至に生まれて、夏至に最強になって、また冬至に死ぬ。この冬至をミトラスが「再び生まれる日」として盛大に祝った。これをキリスト教が取り入れてできたのがクリスマス。

・イシス教はイシスという女神が主役。イシスは偉大なる大地母神として進行されており、ローマでは彼女がホルス(我が子)を膝に乗せて抱いている像が市民に敬愛されていた。これにキリスト教が便乗して、幼子イエスを抱いた聖母マリアの像を作り出した。

ゾロアスター教拝火教)はアーリア人の宗教が源になっている。彼らは地球が寒くなったときカスピ海の北方から南下し、アゼルバイジャンのバクーの辺り(石油の大産地)まで来たとき自然発火している石油を見た。アーリア人はこの火を神様と思ったのだろう。この伝承がザラスシュトラに新しい宗教に目覚めさせる契機となった。今でもバクーの地にはゾロアスター教の「永遠の火」を象徴する聖地が残されている。

・この「永遠の火」はインドを経由して仏教には入り形を変えて日本まで伝わっているのではないか。それは比叡山延暦寺に今も燃え続けている「不滅の法灯」

 

第4章 中国を理解する四つの鍵

1 「中華思想

・交易には大別して二つのパターンがある。まず、普通の商売。需要と供給をマッチさせ、ウィン・ウィンの関係で交易が成立する。これが圧倒的多数。

・もう一つは、「威信財交易」。これは王様の威信と財物が取引される交易。これは、王さま同士が、どちらが偉いか試そうということで使節を出す。この時、自分の偉大さを示すために宝物を持っていく。「こんな立派な物、おまえは持っていないだろう」というわけ。受けた方は「こんなのちょろい。俺はもっとすごいものを持っている」と倍返しする。これによって何となく序列ができる。この王様同士の交渉を「威信財交易」と呼んでいる。

・周は中国のど真ん中を支配していた伝統も力もある王朝だった。周は青銅器という誰も作れない宝を作り相手に贈っていた。もらった相手は「周の王様はやっぱり俺より偉いのか」と納得する。合わせて青銅器に書かれていた漢字の魔力により、いつのまにか周の王室は特別な存在であると考えられるようになる。これが「中華思想」の起源。中華とは、周とその周辺を示す言葉であった。中夏、中国という言葉も同義。

2 「諸子百家

諸子百家の中で代表的な学説や思想は、儒家道家墨家、法家、名家など。文書行政にもっとも役立ったのは、法家であり、その代表が韓非子。中国を動かしていたのは法家と官僚であった。政治の実務は法家が行っていたが、それだけでは物足りない。実務(本音)だけでなく、次は夢とか大義、つまり建前がほしくなる。その建前になったのが儒家であった。

儒家は先祖を大切にするから、立派な葬式を出すことを大切にする。立派な葬式を出すためには金がかかる。真面目に生き、家庭を治め、社会を治め、王様に従い、長幼の序を大事にし、反抗せず、高度成長を謳歌し、立派な葬式を出し、税金をたくさん払う、という考え方。まさに儒家の思想は紀元前500年代の高度成長期の時代の追い風を受けていた。

墨家始皇帝に潰されてほぼ消えたことから、中国の思想界は仏教などの外来思想が入ってくるまでは、一般大衆を基盤に持つ高度成長万歳という儒家と、知識人をベースにしたクールな道家が思想界の二大潮流を作っており、この二つのバランスが社会の安定につながっていた。

3 「遊牧民と農耕民の対立と吸収」

・中国の歴史は、北から入ってくる遊牧民と、長江(揚子江)中心とした農耕民の戦い(緊張関係)の中で捉える。

・中国は国土が広く豊か、ここに入ってきた遊牧民が次第に吸収され、贅沢に慣れて消えてしまう。侵略したが側が、侵略された側に影響を受けて吸収されてしまう。これが中国史の大きな特徴。

・紀元前17世紀頃に起こった商(殷)では既に宦官が使われている。また初期の頃から馬が引く戦車で戦争を行っていたことが文献に残っている。

・宦官は遊牧民の伝統。遊牧民が家畜をコントロールするとき、雄の数が多すぎたり、体が弱い雄の子を産ませないために去勢という方法を取る。宦官という発想自体が遊牧民でないと生まれない。ちなみに日本にはなかった。

メソポタミア文明の影響が中国に及ぶまで約1000年かかった。これは陸路(砂漠を越えユーラシアの大草原の遊牧民を経由)で伝わるのは海路より倍ほど時間がかかることを意味する。インダス文明は海を経て中国に伝わった。

・漢の時代、武帝のあとの漢と匈奴は勝ったり負けたり、漢の皇室と匈奴の皇室はお互いに結婚を繰り返し平和共存していた。ところが2~3世紀にかけて地球は寒冷期を迎える。天災、飢饉が相次ぎ漢は滅びてしまう。その後は三国史の時代(魏・呉・蜀)。漢の最盛期5000万人いた人口が1000万人を切ったとされる。

・漢について。漢は秦の旧都の近く長安に都を置き、武帝の時代に最盛期を迎える。その後、王莽(おうもう)が政権を奪って新を建国するが15年で滅び、漢が洛陽を都として復活する。長安を都にしていた時代を「西漢前漢)」、洛陽を都としていた時代を「東漢後漢)」と呼ぶ。東漢は魏によって滅亡させられる。

・この時代はユーラシア全体が寒かった。モンゴル高原にいた様々な遊牧民は、暖かい空気と緑の草原を求めて東南と西南の方向に大移動を開始した。

・西方に向かった匈奴フン族と呼ばれ、彼らが西進したことで多くの諸部族が玉突きで追い出されヨーロッパ(ローマ帝国)に侵入する。これが、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」。

・東方に向かった遊牧民が、五胡十六国になった。この乱立時代に幕を下ろし、最後に統一したのは北魏。この国は鮮卑の中の拓跋部が作った国。この民族は西方のフランク族のように強力で優秀な部族であった。中国は北の北魏と南の宋が対立する、南北朝の時代に入った。

北魏では、従来の易姓革命という大義名分に代わり、異民族である自分達が中国を支配する建前、イデオロギーとして仏教を国教とした。皇帝=仏、軍人・官僚=菩薩、人民=(救いを求めている)衆生という考え方。こうして東漢の時代に中国に入ってきた仏教は、北魏の時代に大勢力になる端緒が開かれた。

北魏から隋、唐を通して「拓跋帝国」という呼び方もある。当時の中央アジアにいた遊牧民は中国のことを「タクバチュ」と呼んでいた。十字軍を東方の人々が「フランク」と呼んだのと一緒。やがて契丹(きつたん)の勃興に伴って、中国のことを「キタイ」と呼ぶようになり、これがキャセイ(中国の意の文語cathay)という言葉のもととなる。

4 「始皇帝のグランドデザイン」

始皇帝は戦国時代に行われていた文書行政を集大成し、全国を36の郡(後に48)に分け、さらに郡のしたに多くの県を置いて、中央集権の郡県制という制度を作った。

・これは都道府県の知事はすべて中央から派遣するという考え方。国を支配するのは貴族ではない、エリート官僚である、ということ。

・今の中国では、共産党という超エリート集団が北京から全土に指令を出している。儒教に代わる建前が「共産主義」で、その共産主義の裏が儒教。今でも知識人は書を上手に書くし、儒教に従い高度成長、つまり金儲けが大好きである。

始皇帝のもっとすごいことは、文書行政が可能となるインフラ、道を整備したこと。道があるから文書も官僚もスムースに運ばれる。ローマ帝国のように大量の石材がなかったため石畳が作れず土の道路が中心。そこで始皇帝は車軸を統一した。土の道路だから車が通ると凹む。通る車の車輪の幅が違ったら走りにくい。だから車軸を統一し、同じ轍の上を走れるようにした。鉄道の上を汽車が走るようなもの。

・加えて書体や度量衡なども統一し、経済の一体化を図った。始皇帝が中国のすべての骨格を作った、と言える。


第5章 キリスト教とローマ教会、ローマ教皇について

カトリックとは、ラテン語で「普遍的」という意味の言葉。この言葉はすでにキリスト教ローマ帝国時代に協会内部で使われていた。イエスの教えが「この世の至るところで、常に、万人によって」信じられるようにという布教の意気込みをカトリックという言葉に込めていた。

・11世紀半ばにキリスト教は東西に大分裂する。この頃にはローマ帝国の首都はコンスタンティノープルに置かれており、現実的な力を持っていたのはコンスタンティノープルの教会であった。一方、使徒の頭であるぺトロの後継を自認するローマ教会も権威と伝統を誇っていた。1054年両者はお互いを破門してしまう。コンスタンティノープル側は、我々が教義に基づく「正しい教会」であると主張し「東方正教会」と名乗った。一方、ローマ教会は自分達こそ「普遍的な存在」として「カトリック教会」と自称した。

キリスト教ローマ帝国の国教となるまで。ローマ帝国は1~2世紀末の五賢帝の時代に最盛期を迎える。しかし3世紀中頃以降は地球が寒冷期には入り東方から多くの蛮族が入ってくるようになる。ディオクレティアヌス帝は、帝国の衰えを食い止めるため、帝国を分割して統治する「帝国二分」を286年に実施する。次いで293年二つに分けた帝国を、さらにそれぞれ二つに分け東西に正帝と副帝を置く「四分統治体制(テトラルキア)」を完成させる。もちろん東の正帝であるディオクレティアヌスがすべての権力を握っていた。

・当時、アレクサンドリア教会のアリウスという司祭の教えが評判を呼んでいた。それは、「イエスは人の子である(神の創造物である)」、神とイエスを分ける教え。この教えは分かり易く瞬く間に拡がり、特に学問に無縁であった蛮族に大変受けた。しかし、アレクサンドリア教会は彼を破門した。アリウスは自説を曲げない、ここに最初の神学論争が始まった。

・313年、正帝であるリキニウスが「信教自由令」いわゆる「ミラノ勅令」を発布する。これは、その実態は別にして信教の自由が認められた記録としてキリスト教の歴史に残っている。

・325年、ローマ皇帝コンスタンティヌスは神学論争に決着をつけるべく、アナトリアのニカイアに有力なキリスト教会を集めて公会議を開く。この公会議ではアレクサンドリア教会のアタナシウスが主張する「三位一体論」が支持され、アリウス派の教えは異端として排斥された。

コンスタンティヌスは、三位一体説を正当と認めたこと、加えて教会を免税にしたことで、後世のキリスト教会から高く評価され「大帝」と呼ばれるようになる。しかし、彼は死ぬときにはアリウス派の司教から洗礼を受けている。

コンスタンティヌスは帝国を再統一すると、ボスポラス海峡バルカン半島側の突端にあったビュザンティオンという都市を拡大整備して新首都を造営した。これをコンスタンティノープルと名付けた。

・中国の諸王朝は、遊牧民に攻められると北を捨てて南に逃げた。長江の南に豊かな穀倉地帯があったから。ローマ帝国は西を捨てて東に逃げた。ローマ帝国の穀倉地帯はエジプトにあったから。

・380年、テオドシウス帝はキリスト教を国教にした。これはキリスト教のネットワークを統治に使うという一種の取引だったのではないか。ミラノ教会の司教アンブロシウスが、この国教化に暗躍していたのは事実。

・529年になるとユスティニアヌス帝が、アテネにあった「アカデメイア」というヨーロッパ最大の大学を閉鎖する。プラトンが開いたこの大学ではギリシアやローマの学問を教えていた。聖書以外のことを教えていると理由で閉鎖したのである。大学の先生たちは皆、東方のペルシアに逃げてしまった。そこには大学があったから。こうしてペルシアでギリシア、ローマの古典が教え続けられ、アラブ人が後に発見することになる。これがヨーロッパに逆輸入され「ルネサンス」が始まる。

・西方からやって来た蛮族の中で、最終的に西ヨーロッパの大部分を制したのは、現在のベルギー辺りから南下してきたフランク族だった。彼らの王さまは「クローヴィス」と言った。フランス語では「ルイ」。彼は奥さんに進められアリウス派と対立していた正統派(三位一体説)に転向した。これによりローマ教会は西方に安心して布教できるようになった。

ローマ教皇ローマ皇帝から自立したいと思っていた。そために後ろ楯になってくれる王侯がいないかと考えている頃に、フランク王国でクーデターが起こる。クローヴィス(ルイ)以来続いていたメロヴィング家が、その総理大臣であったカロリング家に乗っ取られてしまう。カロリングという名は始祖であるカール・マルテルから来ているが、この人は庶子であった。これはカロリング家にとって大きなハンディキャップ、実力で成り上がった次は正当性の根拠を求めた。力はあるけど権威がないカロリング家と権威はあるけど力のないローマ教皇が手を組んだ。教皇カロリング家の当主ピピン三世から領土をもらう代わりに、カロリング家の正当性を担保した。これが756年の「ピピンの寄進」

・こうして800年にピピン三世の子供フランク王のシャルルマーニュカール大帝)が戴冠したためローマ皇帝が二人になった。

・もともとは小国だったフランス(西フランク王国)が350年間、男の子が生まれ続けたために~これを「カペー家の奇跡」と言う~王家は断絶することなく、徐々に大きくなりローマ教会を支えるヨーロッパ一の強国になっていく。

 ・1077年「カノッサの屈辱」。グレゴリウス七世は叙任権問題で最も厳しくローマ皇帝と衝突した教皇。彼はザーリアー朝の皇帝ハインリヒ四世に対し世俗権力による聖職者の叙任を禁止する。ハインリヒ四世がこれを拒否すると、教皇は皇帝を破門した。ハインリヒ四世は、雪のカノッサ城の城門の外で立ち続け数日間謝罪して、ようやく破門は解かれた。これを「カノッサの屈辱」と呼ぶ。叙任権闘争は最終的にローマ教会側の主張が受け入られるまで(1122年ヴォルムス協約成立)長い年月を要した。

・教会改革にも熱心だったウルバヌス二世が教皇であった11世紀の終わり頃、キリスト教徒のエルサレム巡礼が圧迫を受けるようになった。そこで東ローマ帝国からの救援要請を受け、ウルバヌス二世はフランス中部のクレルモンでエルサレムへの進軍を要請する大演説をぶった。こうして俗に言う十字軍が始まった。しかし東方から見れば単なる「フランクの侵略」に他ならなかった。十字軍は第1回(1096~1099年)のみ成功する。それは、たまたまセルジューク朝が分裂状態にあったから。

・フランス王フィリップ四世は、教皇であるフランス人のクレメンス五世を脅して、強引にフランスのアヴィニョン教皇庁を作らせた。これが「アヴィニョン捕囚」。これは1309年から1377年まで続いた。

教皇庁が70年近くもフランスにあったのでアヴィニョンにも官僚群が育っている。彼らはローマに帰るのを拒みフランスに対立教皇を立てる。東西の教会が互いを破門して起きた大分裂を大シスマ、今回のフランスとローマの分裂を小シスマと呼んでいる。この分裂は1417年まで続く。ちなみに大シスマは、1965年にパウロ6世が修復するまで続いた。

ルネサンスが最盛期を迎えた頃、ローマ教皇レオ十世が贖宥状を発売する。これを批判したルターによる宗教改革が起こり(1517年)、ローマ教会は北欧、ドイツを失った。

・これをイングランドのヘンリー八世が見ており、イングランドもローマ教会から離脱して英国国教会を作った。

・こうしてローマ教会は、北欧、ドイツ、イングランドを失った。1545年から18年かけてトリエントで公会議を開き対策を協議。反宗教改革の旗手でもあったイエズス会を中心に新大陸(アメリカ、アジア)へ進出していく。

・20世紀に入って1962年から1965年まで、第二ヴァチカン公会議が開催され、ここでプロテスタント教会ユダヤ教会の積極的評価、信教の自由、東方教会との900年ぶりの和解などが確認された。

ローマ教会の三つの大きな特徴

(1)キリスト教の「one of them」である

(2)領土を持ってしまった教会である

(3)豊かな資金と情報を持っている

神聖ローマ帝国

ナチス神聖ローマ帝国を第一帝国、ビスマルクが創ったドイツ帝国を第二帝国、ヒトラーの帝国を第三帝国と呼ぶようになった。


第6章 ドイツ、フランス、イングランド

・三国は一緒に考えるとよく分かる。まずは英国という呼称について。正式名称は`United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland 。略称としては「UK」が一般的で、その訳である「連合王国」や古くからの主要な王国名である「イングランド」も使用される。「イギリス」や「英国」は日本だけしか通用しない。

フランク王国が東西フランク王国に分かれ、それぞれがドイツ(東)、フランス(西)へと変遷していく。10世紀から11世紀にかけて、ドイツ、フランス、英国の順に国家の体裁を整えていった。

カロリング朝の血統が途絶えてしまうと、東フランク王国ではザクセン族が息を吹き返し、オットーが国王になる(936年)。彼はローマ教皇から戴冠されローマ皇帝となる。これがドイツのはじまり。一方、西フランク王国は、ユーグ・カペーが987年にカペー朝を開く。これがフランスの元となる。

イングランドでは、いつもヴァイキングの格好の餌食になっていたが、ついに1016年デンマークからやってきたヴァイキングのクヌート大王がイングランドを占領した。なお、ヴァイキングとは「入江(vik)に住んでいる人々」

フランスと英国の成り立ちは一緒に考えると分かりやすい

 ・フランスのカペー家には350年間嫡男がずっと生まれ続ける。これを「カペー家の奇跡」という。継続は力なり、こうしてフランス王は少しづつ力をつけてくる。

 ・カペー家が成立する以前、ヴァイキングは、まずイングランドを占拠し、次にフランスに攻めてきた。当時のカロリング家のフランス王は、毒をもって毒を制するとの考えから、現在のノルマンディの地をヴァイキングに渡した。これがノルマンディ(北の人間の土地)と呼ばれる所以。そこでこの地に「ノルマンディ公国」が911年設立。ちなみに第二次世界大戦で連合軍がフランスに上陸したのもノルマンディ。

イングランドと呼ばれる大ブリテン島の南部地域は、ローマ軍が撤退した後、アングロ・サクソン人小さな王国をいくつも作っていた。これを制したのがデンマークから来たクヌート王(1016年)だったが、その後の混乱でノルマンディー公のギョーム(英語読みでウィリアム)が初代の英国王となってノルマン朝を開く。なお、イングランドとは、「アングル(アングロと同義)人の土地」を意味する言葉。

イングランド王になったウィリアム征服王は、同時にフランスの公爵、つまりフランス王の臣下だった。しかし、イングランド王はフランス王の臣下ではない。つまり、ノルマンディ公は、フランス王の臣下でありながら、対等のイングランド王でもあるという不思議な身分を持っていた。

イングランド王といいながらフランス語を話しお墓もフランスにあった。イングランド王とフランス王は親戚関係でもあった。それが1337年に始まった百年戦争により、英国とフランスは、はっきりと別の国になった。

ヴァイキングはもともと商人だった。フェアなトレードが成り立つときは商人であり、アンフェアなことをされたら海賊になる。


第7章 交易の重要性

・生態系とは、地理的にまとまっている一つの地域。気候もある程度一定で、人が住み距離的にも移動しやすい地域のこと。この生態系も、交通が便利になると、その領域が広くなる。また、生態系は横(東西)には広がりやすく、縦(南北)には広がりにくい性質を持っている。これは南北では気候の変動が大きく、東西ではほぼ同じ気候条件であるため、圧倒的に東西の方が移動しやすいという理由による。

・自分が住んでいる生態系の中に、必要なものがなかったら、それを外部から、持って来なければ仕方ない。だから、ないものを知恵を絞って手に入れることによって、自分の住む生態系を豊かにすることが、交易の本質である。生きるために、他の生態系と交わる、場合によっては新しい生態系に入っていく。これが交易、商売の秘訣。

・東から西への道は三つあった。一番北にあったのが「草原の道」で、モンゴル高原、ロシア大草原、ハンガリー大平原へと続くステップの道、馬で駆けていく遊牧民の道。その次が「シルクロード」これは砂漠を横切っていくオアシスの道、天山北路、南路などいくつかルートがあった。そして一番南が「海の道」、陸地の姿を見ながら進む、広東(広州)あたりから大陸に沿って南下し、インドの各地を経由してヨーロッパに入る。入るには二つのルートがあった。一つはペルシア湾ルート、ホルムズ海峡からペルシア湾を抜けて、メソポタミア地方からヨーロッパに流れていくルート。もう一つは、アラビア半島を迂回して紅海を通り、エジプトから地中海に流れる道。なお、交易量が一番多かったのは「海の道」、一番少なかったのは「シルクロード

ローマ帝国は、交易に積極的だった。絹や火葬に用いられる乳香や没薬(もつやく)などの東方の香料も好きだった。しかしキリスト教が国教になり土葬が中心になると需要は激減し「幸福なアラビア」(現在のイエメン)の時代は終わった。

シルクロードで主に運ばれた商品はおそらく人間。人間が一番運びやすくかつ価値があった。たとえば中央アジアの白人の女性を中国に連れていって、豪族や酒場に売ったと考えられる。シルクロードでもっとも重要だったのは奴隷貿易

・ユーラシアの交易は、豊かな東から貧しい西へと言う流れが長い間続いた。この流れが入れ替わるのは、アヘン戦争から。

モンゴル帝国滅亡の最大の原因は、ペストであったと言われている。ペストが中央アジアで発生したのは14世紀前半のこと。ペストは東方で猛威を振るったあと、黒海、地中海を経由して南イタリアに上陸しヨーロッパ全域に拡大した。ペストのかかって死亡すると皮膚が黒くなるので黒死病とも呼ばれた。


第8章 中央アジアを駆け抜けたトゥルクマン

・ユーラシアの大草原を代表する遊牧民といえば、モンゴルがよく知られているが、もう一つ忘れてならないのが「トゥルクマン」と呼ばれたテュルク系遊牧民。彼らの故郷は、モンゴル高原からカスピ海東海岸に至る広大なステップ地帯であった。今、その地域には数多くの共和国がある。

・552年に突厥(とつけつ)という国が柔然(じゅうぜん)を破り中央ユーラシアを制覇する。現在のトルコ共和国憲法では、552年にモンゴル高原で始祖ブミン・カガンが突厥の初代皇帝に即位した日を「建国記念日」にしている。突厥という漢字は、Turk(テュルク)の音写。

・この突厥は200年ほど覇を唱えモンゴル高原からカスピ海に至るまでの大領土を支配したが、744年に同じテュルク系のウイグルに滅ぼされる。ウイグルマニ教を国教にしたことで有名。このウイグルも約100年後の840年キルギスに滅ぼされる。

キルギスは強力な統一国家を作ることができずモンゴル高原は群雄割拠状態になった。ウイグルが滅んだあと、敗れたテュルク族は西に移動した。何千人、何万人という大集団(20ほどの大集団があったと言われている)ごとに移動していくわけだが、その先には交易で発達した都市があり、イスラム文化があった。この大集団にオグズと呼ばれた集団があり、後の王統のほとんどはこの集団から出ている。もともと原始宗教しか持たなかったテュクル人はイスラム教を知り感化されムスリムになった。このイスラム教に感化されて西に行った人々を、一般に「トゥルクマン」と呼んでいる。

・その頃中東を支配していたアッバース朝(750年に成立したバグダードを首都とするイスラム帝国)の力が弱まり、875年にサーマーン朝というペルシア系の地方政権が中央アジアに生まれた。サーマーン朝の人々は、今は放浪の身になっているトゥルクマンが戦争に強いことを知っており、しかもイスラム教徒であることから、子供を譲ってもらい大切に育て立派な戦士にしてからアッバース朝はじめとするイスラム諸国に輸出した。この取引は大成功し大量のトゥルクマンがマムルーク(奴隷の意)として売られて行き大きな戦力となった。

・10世紀末、オグズ集団の中からセルジュークという部族長が頭角を表す。当時隆盛を誇っていたガズナ朝に仕える人も出てきた。ガズナ朝はサーマーン朝のマムルークが軍政長官まで出世し、やがてサーマーン朝から独立してアフガニスタンのカブール近くのガズナに建てた王朝。後にインドまで勢力を広める。

・セルジュークの一族から、11世紀の半ば、トゥグリル・ベグが現れ1040年にガズナ朝を破って支配者となる。このトゥグリル・ベグの勇名を聞いてアッバース朝のカリフは、内紛の絶えないバグダードを鎮めてくれるように依頼した。その代わりにスルタンとして彼を認めるという条件で。スルタンとは、イスラム世界の世俗の支配者のこと。こうしてセルジューク朝が、弱体化したアッバース朝に替わってイスラム帝国を支えるようになった。

・ペルシアは昔から大帝国を作ってきた。イスラム教団に敗れても、官僚の家系は生き残ってきた。彼らは優秀な官僚として重宝され使われていた。そうして「トゥルクマンの武力」と「ペルシア人の官僚」というケンカは強いし行政もちゃんと出来るという黄金の組合せが完成した。

 

第9章 アメリカとフランスの特異性

 世界には、200近い国があるが、その中で一番特異で例外的な国は、アメリカとフランス。

アメリカは世界で一番ユニークな人工国家であると同時に、地理的条件に恵まれ、歴史という縦の軸と地理という横の軸が、これほど効果的に影響し合った例は世界史上でもまれである。アメリカの考え方はグローバルスタンダード的な面もあるが、アメリカを正しく認識するためには、アメリカはとても変わっており特異で例外的な国であることを踏まえる必要がある。

・「ワインも人間も生まれ育った地域(クリマ)の気候や歴史の産物」といった人間の当たり前の心情を断ち切った人工国家が世界に二つある。それがアメリカとフランス革命後のフランス。

アメリカの歴史は、1492年のコロンのバハマ諸島発見から、1620年のピルグリム・ファーザーズ(メイフラワー号でアメリカに最初に移住した英国の清教徒の一団)に一気に話が飛んでしまう。しかし、その間に130年の時間が流れている。この間、旧世界から持ち込まれた病原菌(天然痘など)が免疫のない新世界の人々をほとんど殺してしまった。メキシコだけでも約2500万人と推定される先住民がほぼ全滅したと伝えられている。植民地を経営しようにも労働力となる原住民がいなくなったため、アフリカから頑丈な黒人を連れてきた。

・1776年に独立宣言を採択したとき、よるべとすべき祖先も物語もなかった。ピルグリム・ファーザーズは原理主義的な人々であったため、原理主義的な理想が明文化されて、英国にはない成文憲法を成り立ちとする契約国家になった。今のアメリカを主導する人々は、俗にWASPと呼ばれている。ホワイトで、アングロ・サクソンで、プロテスタントの人々の意。憲法、契約のような人間の理性を国の根幹に置いている不思議な国である。

・このアメリカの独立戦争を応援して影響を受けたのがフランス。フランスには素晴らしい歴史や伝統があるのに、フランス革命がしだいに過激になり、ルイ16世マリー・アントワネットまで処刑してしまうなど過激に純化されてしまった。これはアメリカの影響だろう。

保守主義とは何か?「人間は賢くない。頭で考えることはそれほど役に立たない。何を信じるかといえばトライ・アンド・エラーでやって来た経験しかない。長い間、人々がまあこれでいいじゃないかと社会に習慣として定着したものしか信じることができない」この経験主義を立脚点として「これまでの慣習を少しずつ改良していけば世の中はよくなる。要するに、これまでうまくいっていることは変えてはいけない。不味いことが起こったらそこだけを直せばいい」という考え方(近代の保守主義)が、人工国家に対する反動として生まれた。

・真の保守主義にはイデオロギーがない。「人間がやってきたことで、みんなが良しとしていることを大事にして、まずいことが起こったら直していこう」これが保守の立場。フランス革命アメリカ革命はイデオロギー優先、「自由・平等・博愛」とか「憲法」を旗印にしている。それは頭で考えたら正しくて素晴らしいに違いないが、やはり人工国家で限界がある。

・人権というかなりデリケートで国によって様々なニュアンスを持つ問題を、公の場で平気で言ってしまうところに、アメリカという国の特異性がある。アメリカとフランスが、外交などでよく対立するのも、近親憎悪の一種かもしれない。その対立は理念や理屈によるところが多かった。実利を重んじて行動を優先させることが、むしろ普通の外交。アメリカとフランスの場合、なぜ理念が表に出るかというのは、国の成り立ちが大きく影響している。

・今のアメリカの強みは、世界中から優秀な留学生を集める力があること。現在100万人近くいる。アメリカの大学では授業料で300万円、生活費も入れれば、400~500万円必要になる。もし2年学ぶとすると1000万円、それが100万人いるとして、それだけで10兆円の有効需要が生まれる。これはGDPの1%に相当。

 

第10章 アヘン戦争

 西洋のGDPが東洋を凌駕したのは、アヘン戦争以後のこと。アヘン戦争は東洋の没落と西洋の勃興との分水嶺だった。

 ・東洋と西洋のバランスが崩れたもともとの原因は、大明暗黒政権、朱元璋による明の鎖国政策にあったが、現実に勢力のバランスが逆転したのはアヘン戦争。清国政府は1796年にアヘンの輸入禁止令を発出して以来、たびたび禁輸令を出すが、賄賂に慣らされた役人も多く輸入量が増大。それに伴って中国の銀が大量に流出し悪性インフレが起こった。事態を重く見た政府は林則徐を広東に送り込み、何とか密貿易を止めさせようとしたが、1840年英国は本国から海軍を呼び寄せ戦争を仕掛けた。その結果、南京条約という不平等条約を結び、1842年英国と講和する。清国は英国に多額の賠償金を支払い、香港を割譲した。

・現在世界的に有名なインドのダージリンティースリランカの紅茶は、すべて英国が中国から盗み持ち込んだもの。お茶が盗まれたことは、中国弱体化の象徴そのものだった。

・林則徐と明治維新は意外な関係がある。彼は広東に行く前、北京中の洋書を買い漁り、学者を同行させ本の内容を口述で伝えさせた。その後、戦争が始まり清国政府から罷免されて新疆のウルムチに飛ばされる際、彼は友人の学者に集めた洋書をすべて預け頼んだ。「私は外国語は読めない。けれどもこの文献に書かれた内容は耳で聞いただけでも役に立った。これらの洋書を感じに翻訳してくれ。きっと後世、西洋に立ち向かうときに誰かの役に立つ」。この本は、日本でも、佐久間象山吉田松陰など、明治維新の志士たちの経典になった。維新の志士たちは、この本で世界の現状を学んだ。明治維新派ある意味、林則徐のリベンジであったという人もいる。

アヘン戦争により、中国のGDPのシェアは32.9%から、17.1%まで落ちた。インドは18世紀までは20%台、それまでの中国やインドのGDPがいかに桁外れに大きかったかがわかる。過去の歴史を、GDPと人口と気候変動という視点から見つめ直すことも新しい発見につながる。

 

終 章 世界史の視点から日本を眺めてみよう

・動物としての人間が一番頑張れるのは、20代から50代のだいたい20~30年。国や共同体も、そのピークはやはり20~30年。

ローマ帝国では、五賢帝の時代(約100年)を、ローマの平和=パックス・ロマーナと呼んだりしているが、実際はその間ずっと繁栄が続いたわけではない。世界の歴史を見ていくと、「豊かで戦争もなく、経済が右肩上がりに成長していく本当に幸せな時代」は、実はほとんどないことがわかる。

・なぜ、日本に戦後の高度成長が生まれたか?1945年当時、戦勝国アメリカのアジア政策のパートナーは北京の蒋介石だった。ワシントン・北京枢軸という考え方でアジアの秩序を確立するという方針。日本はただの敗戦国でしかなかった。ところが、東西の冷戦が始まって蒋介石は北京から台湾に追い出され、北京は毛沢東が支配することになった。アジアに残されたアメリカのパートナーは日本しかない。しかも日本列島の位置を見れば冷戦最前線のまさに不沈空母。こうして図らずも東京がアメリカのパートナーとなった。

・日本は海外の領土を失ったので、たくさんの人が引き揚げてきた。平和になったので子供もたくさん生まれた。会社や役所の幹部もマッカーサーが戦犯として年長者を追放したため、30~40代に若返り風通しがよくなった。ドッジ・ライン(財政金融引締め政策)で民間が頑張るしかない。為替も360円に固定された。さらに朝鮮戦争が起こって特需も生まれた。アメリカが世界の海を支配していたので原料輸入にも支障がない。加えて吉田茂という賢いリーダもいた。これにより経済が急回復した。

・日本の繁栄は「毛沢東のおかげ」とも言える。もし蒋介石が北京に残っていたらアメリカは日本など歯牙にもかけなかった。しかも毛沢東は長生きし、大躍進や文化大革命など多くの失敗を犯してくれた。これにより中国は中々立ち直ることができず、日本はアジア唯一の工業国として繁栄を独占できた。

・このように戦後の日本は特別だった。幸運の女神が五回くらい連続でウインクしたくらい幸運が重なったのが戦後の日本だったと思うべき。

2020.3.1「AIに心は宿るのか」松原仁

久しぶりのアップです。世の中はコロナウイルスで大騒ぎになっていますが、私はこの記事をアップしたあと軽くジョギングしてこようと思います。常に平常心、これをモットーに生きていくつもりです。

松原仁さんの本はこれが初めてですが、「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」を主宰されている方です。通勤電車のなか読みました。羽生さんとの対談も面白くあっという間に読み終えました。

AIに対しては、悲観論と楽観論の両極端があるように思います。この本では著者の長年の研究からAIに対する客観的な視点が語られており、非常に納得感のある内容でした。心に残っている部分をいくつか紹介したいと思います。

その前に、まずは目次から

<目次>

プロローグ 溶け合う、AIと人間の境界線
第1章 “AI作家”は、生まれるのか
第2章 「知の敗北」が意味すること――棋界に見る、シンギュラリティの縮図――
第3章 対談 AIは「創造的な一手」を指せるのか
第4章 AIに創造は可能か
第5章 「ポスト・ヒューマン」への、四つの提言

 

この本のなかで何度か触れられているのが「心」の問題です。

・・・つまり心とは、私たち人間が「心の存在を仮定した方が便利である」と確信した時に生じる、知能の働きの一つ・・・この知能の働きは、言語コミュニケーションや振る舞いなどを通じ、「一定の複雑さが再現されていれば」仮に相手が人間でなくても生じるものだ・・・

これはAIを考える上で非常に示唆の富んだ問題ではないでしょうか。

 

AI最大の難問に「フレーム問題」があるらしい。

これは、ある行為をコンピュータにプログラムしようとした時、「その行為によって変化しないこと」をすべて記述しようとすると計算量が爆発的に増えてしまい、結果としてその行為を行うことができなくなるという問題、とのこと。少し難しいが、何となく理解できる。

・・・

人間は時と場合によって情報に「あたり」をつけて行動することができるが、AIは「変化しないこと」を自明のこととするのが苦手なのです。

つまり多くの人は「なんとなくうまくやっていくことができる」これが私たち人間の持つ「知能の汎用性、柔軟性」なのです。この「なんとなく」による意思決定が人間とAIの知能を分かつ、一つの大きな特徴なのです。・・・

私たちは「ミスを犯し得るという代償を払って、知能の柔軟性を獲得している」のです。そこで重要な役割を果たしているのが、身体という物理的限界なのです。

・・・

そして著者は、以上の理由からAIに身体を与えることが、この「フレーム問題」を解決することになる、と予想しています。面白いですね。まさにアトムの世界。

最後にレイ・カーツワイル2045年にコンピュータの進化が人間に予測できなくなる「シンギュラリティ(技術的特異点)」を迎えると言っています。この2045が正しいかどうかは別にして私の生きている間に見てみたいものです。

しかし、これは、いついつの日に来るというより、「ある日気付いたらこの特異点(シンギュラリティ)を越えていた」ということなのでしょう。

 

 

2019.8.24「僕は君たちに武器を配りたい」瀧本哲史

瀧本さんの訃報を目にし、ずいぶん前に読み(聞き)終えた本「僕は君たちに武器を配りたい」を再読した。あらためてこの本から学んだことをまとめてみる。

まずは目次から

はじめに
第1章  勉強できてもコモディティ
第2章  「本物の資本主義」が日本にやってきた
第3章  学校では教えてくれない資本主義の現在
第4章  日本人で生き残る4つのタイプと、生き残れない2つのタイプ
第5章  企業の浮沈のカギを握る「マーケター」という働き方
第6章  イノベーター=起業家を目指せ
第7章  本当はクレイジーなリーダーたち
第8章  投資家として生きる本当の意味
第9章  ゲリラ戦のはじまり
本書で手に入れた武器

この本で瀧本さんが伝えたかったことは、大きく二つあると思う。

1 これからの社会は、コモディティ化できない部分で勝負しろ

2 サラリーマンになるな。投資家的生き方をしろ

スペックが明確に定義できるもの(≒個性のないもの)は、すべてコモディティ化してしまう。

そうなれば、単により価格の安い物が選ばれ、買いたたかれてしまう。

瀧本さんはこの本で、今後の日本社会で生き残れる人と生き残れない人のタイプを次のように示している。

■今までは評価されたが、これからの日本では生き残れない2つのタイプ

 ①トレーダー…商品を遠くに運んで売ることが出来る人

 ②エキスパート…自分の専門性を高めて、高いスキルで仕事をする人

■今後も生き残れる4つのタイプ

 ③マーケター…商品に付加価値をつけて、市場に合わせて売ることが出来る人

 ④イノベータ…まったく新しい仕組みをイノベーション出来る人

 ⑤リーダー…自分が起業家となり、みんなをマネージしてリーダーとして行動する人 

 ⑥インベスター(投資家)…投資家として市場に参加している人

③マーケターには、「ストーリーを商品に付加する」ことがが大切

④イノベーターとは、既存のものを今までとは違う組み合わせで提示すること

⑥投資家は、リスクの大きさを見極めつつリスクを取って投資する。市場のトレンドとサイクルを見極めること、が大切

 

・投資家的生き方とは、未来を予測し、その未来に積極的に関わっていくこと

・「投資=お金を投資する」と考えている人が多い。投資とはお金だけでなく、時間、労力、人間関係も投資する、と考える。

・サラリーマン(労働者)として働くのではなく、投資家として働く。言い換えれば、「他人に自分の時間を売ってお金を得る」のではなく、「自分で考え自分で判断してお金を得る」。

リベラルアーツ、つまり本当の教養、自分で考え自分で判断できる能力が基本的に重要である。

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2019.8.18「『24のキーワード』でまるわかり!最速で身につく世界史」角田陽一郎

前回のアップからずいぶんサボってしまった。読み終えて(聞き終えて)から2週間以上たってしまったが、今日は角田陽一郎さんの書かれた「『24のキーワード』でまるわかり!最速で身につく世界史」についてまとめてみた。

まずはいつものように目次から

 

第1講 文明の話

 四大文明はなぜ「乾燥地帯」で生まれたのか?

 20万年前~1万年前/全世界

第2講 水の話

 その地域のルールや文化の特色は、水によって決まる。

 1万年前~紀元前11世紀/四大文明の地域

第3講 宗教の話
 宗教とは、思い込みで生まれるものである。

 紀元前13世紀~7世紀/西アジア、インド

第4講 思想の話
 思想は、気候や環境に思いっきり左右される。

 紀元前7世紀~紀元前4世紀/西アジア、インド、中国(春秋・戦国時代)、ギリシャ

第5講 帝国の話
 人が集まり、国ができ、やがて他国を支配する帝国が生まれる。

 紀元前6世紀~4世紀/ペルシア帝国、ローマ帝国
第6講 商人の話

 実はイスラム教は、合理的で寛容的な宗教である。

 7世紀~13世紀/イスラム帝国

第7講 中華の話

 中国を見ることで、その他の国の見方まで変わってしまう。

 紀元前3世紀~3世紀/秦・漢帝国

第8講 民族の話
 民族や文化の違いで差別する愚かさに気付く話をします。

 4世紀~14世紀/ヨーロッパ

第9講 征服の話
 王朝の誕生と衰退は、芸能アイドルの世代交代と一緒!?

 紀元前2世紀~13世紀/漢・隋・唐・宋、モンゴル

第10講 周縁の話
 周縁で起こったことを知ると、世界史はもっと面白くなる!

 紀元前7世紀~15世紀/インド、ロシア、アフリカ、アメリカ、日本〔ほか〕

第11講 発見の話

 「発見」とは未知が既知になるだけ。でもその威力は偉大である。

 11世紀~16世紀/ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、日本

第12講 芸術と科学の話

 法則がシンプルで美しければ、科学的に正しいとなってしまう!

 14世紀~17世紀/ヨーロッパ

第13講 国家の話

 国の種類はたった二つしかない。

 1万年前~現在/全世界

第14講 約束の話

 「誠実に約束させることが、戦争を生む」という悲劇。

 15世紀、16世紀/ヨーロッパ、アメリ

第15講 理想の話

 ある人にとっての「理想」は、別の人にとっては「脅威」となる。

 17世紀、18世紀/イギリス、アメリ

第16講 革命の話

 ダイエットとリバンドを繰り返す「革命」によって人類は進化する。

 18世紀、19世紀/ヨーロッパ、日本

第17講 産業の話

 技術革新や発明が、生活時間、行動範囲、芸術までも変化させた。

 16世紀~19世紀/ヨーロッパ

第18講 統合の話

 民族の「統合」と、帝国による「分割」が同時進行するという矛盾。

 14世紀~19世紀/ヨーロッパ列強、西アジア、インド、明・清

第19講 分割の話

 植民地とそこへのルートが欲しくて、世界を分割し続けた。

 19世紀、20世紀/全世界

第20講 戦争の話

 戦争を起こさないためには、戦争をよく知る必要がある。

 20世紀/全世界

第21講 イデオロギーの話

 社会主義成功のカギを握るのは、イデオロギーにあらず。

 20世紀/全世界

第22講 お金の話

 お金が、人生の持ち時間、就職先まで決めてしまう。

 20世紀/全世界

第23講 情報の話

 現在は、農業革命、産業革命に続く「情報革命」が進行中である。

 20世紀、21世紀/全世界

第24講 未来の話

 未来を考えると、現代・過去までもより深く理解できる。

 21世紀~/全世界

 

一気に聞き終えたが、特に印象に残った部分を要約して記述する。

・約20万年前に今の人類であるホモ・サピエンスの共通の祖先が東アフリカで誕生した。これはミトコンドリアDNAを辿っていくと「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれる一人の女性のDNAに行き着くことで解った事実である。そして約6万年前にそこから世界各地に広がったとされている。

・「人種差別」はあってはならないこと、という常識は、この「人類アフリカ単一起源説」が主流になってからの”常識”である。世界史とは「差別の歴史」であり、同時に「差別との戦いの歴史」でもある。

・グレート・ジャーニーと呼ばれる人類の長い旅、世界史とは人類の「旅の歴史」でもある。

・約1万年前に四代文明(こう呼んでるのは日本だけのようだが...)が乾燥地帯で起こった。エジプト文明メソポタミア文明インダス文明黄河文明の四つ。

・日本でこのような文明が起こらず、縄文時代が紀元前2世紀頃までという比較的新しい時代まで続いたのは、恵まれた環境であったから。「日本は恵まれ過ぎた環境」というのは世界史の中で日本を知る上で重要なポイント。

・なぜこの時期に文明が起こったのか?氷河期が終わった1万年前に農耕と牧畜という「農業革命」が、この乾燥との闘いの中で始まった。

なぜ、この四つの地域で文明が生まれたのか?そこに乾燥に耐える最適な栽培種の野生種が”たまたま”繁殖していたから。それは「ムギ」と「アワ」。そこには人間だけでなく動物も群がってくる。その動物たちを飼い始めたのが”牧畜”の始まりである。

・乾燥地帯にあった四代文明に共通するもうひとつの条件は、すべて大河の流域に存在したという点。エジプト文明ナイル川メソポタミア文明チグリス川とユーフラテス川、インダス文明インダス川黄河文明黄河。人は真水が確保できるところに集まり、農耕し、やがて都市を作る。そして水のない場所に水を供給する「灌漑」や、逆に水がありすぎて起こる洪水から守るために「治水」という大規模な共同作業が必要不可欠となる。そうなれば、それを取り仕切る指導者、つまり王が必要となる。これが文明の始まり。

・戦争とは「水が確保できる場所の争奪戦」であり、政治とは「確保した水を灌漑し治水する施策」である。

・四代文明の特質が源流となって、その後の世界史、ひいては現代までにも繋がる各地域の特徴を形作っている。ところが、インダス文明だけは、今のインド文明に直接つながっていない。つまり現代のインドは、古代と「断絶」されている。

黄河文明で栽培されたアワは地下水で栽培されたため、大規模な灌漑は行われなかった。そのため広い地域で邑(ゆう)と呼ばれる小さな集落が点在し、それぞれの邑に住む部族の祖先が崇拝された。誰よりも自分の祖先が偉い、という価値観が、現在の東アジア地域の集団主義的な特徴を形作っている。その代表が「中華思想」、自らが世界の中心であり、外部は自分達の下に序列する下部集団にすぎない、という考え方。

一神教の代表である、ユダヤ教キリスト教イスラム教は、アラビア半島という厳しい環境の「さばく」の中の都市で形作られた”砂漠の宗教”である。これらの神様は同一であり、神をヤハウェとして崇拝するのがユダヤ教、ゴッドとして崇拝するのがキリスト教アッラーとして崇拝してるのがイスラム教である。つまり、この三つの宗教間の対立とは、信じている神様の違いではなく「神様への崇拝のやり方」をめぐる対立と捉えるべきである。

キリスト教は大きく分けると3つある。まず、11世紀にローマのバチカンを本拠とする西方教会カトリック)と、コンスタンティノーブルを本拠とするギリシャ正教東方教会に分裂した。さらに16世紀にカトリックに反抗するプロテスタントが現れた。神父はカトリック正教会にいるが、プロテスタントにはいない。

イスラム教はスンニ派が主流をなし、全体の9割、シーア派は約1割でほとんどが今のイランにいる。シーア派のイラン人とスンニ派の多いアラブ人の対立が、今でも中東の紛争が絶えない理由のひとつである。

多神教温暖湿潤で多種多様な動植物がいる環境で生まれた「森の宗教」である。多神教では、宗教の指導者や偉い人が亡くなったあと、新しい神様が次々とメンバーに加入する。

・自分の中に神様がいらっしゃるのが一神教、自分の外に神様がいらっしゃるのが多神教。決めてから迷う一神教、決めるまで迷う多神教

・紀元前7世紀から4世紀にかけて、宗教や哲学が一気に生まれる「精神革命」が起こった。これを「枢軸時代」と呼ぶ。

パレスチナユダヤ教

ペルシアでゾロアスター教

インドで仏教やジャイナ教ウパニシャッド哲学

中国で儒教をはじめとした諸子百家

ギリシャギリシャ哲学

ゾロアスター教は、紀元前6世紀頃、ペルシア地方の草原地帯に現れたゾロアスターによって創始された。火を神聖視し、善悪二元論と終末論を教義の核とする。草原地帯で昼と夜が繰り返されることから生まれた考え方。この二元論や終末論である「最後の審判」という思想は、砂漠の宗教ユダヤ教に強い影響を与え、その後のキリスト教イスラム教に通じている。

易姓革命とは「現王朝がふしだらなため、天命を受けた者がそいつを倒して新王朝をたてる」という思想。この考え方は現代にも受け継がれている。「中国四千年の歴史」とは、四千年間同じ思想が続いているという意味で的を射ている。

・日本はもちろん東アジアで2500年以上にわたって大きな影響を与えている思想が、孔子が創設した儒教黄河文明から続く祖先崇拝と家族崇拝を体系化した教えであり、「長幼の序」つまり「年上の方が偉い」いう考え方である。これは孟子などの後継者により、より厳密化・体系化され「論語」をはじめとした「四書五経」にまとめられた。

中華思想は、この儒教が生まれたことでより強固になった。「年少者は年長者を敬い、年長者は年少者を慈しむ」ということになれば、中国が世界の中で一番の年長者ということになる。

・最盛期のアテネ市民は15万人に対し奴隷は10万人いたと言われる。富裕層だけの特異な民主政治が行われていた。生活にゆとりができると人は人生について考え、やがて万物の根源を考える。そこでギリシャ哲学が生まれた。ソクラテスプラトンアリストテレスなどを代表として産み出された哲学は近代社会の様々な思想の基本となる。しかし継続して受け継がれたのではなく、一度世界史から忘れ去られたものを、後のイスラム世界の人々が翻訳・発展させてから再び日の目を見ることになる。それが14世紀にヨーロッパに伝わったのがルネッサンス

ユーラシア大陸の帝国とは、「北の比較的”貧しい遊牧民”が、ウマという交通・通信手段を獲得することで軍事的に優位にたち、南の経済的に”裕福な農耕民”を征服したり、寄生したり、従えたりした国家」ということができる。

・ウマと車の組み合わせは、「大量の荷物」を「高速で移動」できる画期的手段であった。そしてその用途は、運搬、農耕、戦闘と多種多様。

・馬の上から弓を射る「騎射」が圧倒的な軍事力となり、騎馬軍団が登場した。鉄砲が発明されるまで、世界最強の軍団であった。

・世界史史上最初の巨大帝国は、紀元前6世紀にイラン高原から起こったアケメネス朝ペルシア帝国である。その支配はエジプトからインダス川まで及び、人口も5000万人に達した。ギリシャのポリス国家にも攻撃を仕掛けた。

・アケメネス朝ペルシア帝国は、全国を州という行政区に分け州知事を置き、さらにその州知事を監視する「王の目」「王の耳」という監察官を中央から派遣した。さらに「王の道」という国道や駅伝、通貨制度を創設した。

・行政区を整備し、道路や通信手段を作り、共通通貨を制定する、これらの中央集権的政策は、その後の時代でも国民を統治するために使われている制度である。

・このアケメネス朝ペルシア帝国を滅ぼしたのは、紀元前4世紀ギリシャの各ポリスを制圧し、北のマケドニアから誕生したアレクサンドロス大王(英語読みではアレキサンダーアラビア語読みならイスカンダル)。彼は世界制覇の野望に燃えエジプトからインドまでを征服し第帝国を誕生させた。これによりギリシャ文化とオリエント文化を融合したヘレニズム時代が幕を開けることになる。

・イラン人のプライドはペルシア帝国にある。アケメネス朝ペルシア帝国がアレクサンドロス大王に滅ぼされたあとも、紀元前3世紀にはイラン系の騎馬遊牧民がパルティア王国を建国し、400年続く。その後ササン朝ペルシアに代わりさらに400年続く。つまり現在のイランは、このようにかつて巨大な帝国を作ったペルシア人の末裔の国というプライドをもって行動している。

イスラム教内での宗派争いに見える中東の構図も、「プライド高き伝統あるペルシア人」vs「イスラム教の元祖であるアラブ人」という視点を知ることで、新たな一面が見えてくる。

・紀元前1世紀に、地中海に突き出たイタリア半島から巨大な帝国=ローマ帝国が誕生した。東地中海を勢力にしていたヘレニズム文化の体現者クレオパトラプトレマイオス朝を滅ぼし、地中海を統一した世界初の海洋帝国を創設した。

ローマ帝国は「すべての道はローマに通ず」という格言が残るほどの立派な道路を建設した。日本の新幹線の線路の幅(標準軌)は、ローマ時代の馬車の軌道と同じ。

ローマ帝国は2世紀の五賢帝が統治した最盛期までの200年間、域内では平和が続き「パクス・ロマーナ」と呼ばれる平和な時代が続く。

・7世紀にユーラシア大陸西アジアの乾燥地帯で、世界史の一大転機になる事態が起こる。イスラム教の成立である。

イスラム教は、当時極めて合理的で寛容的な最新の宗教であったことが、勢力拡大に有利に働いた。イスラム教は承認から生まれた宗教。

イスラム教の主要な担い手をアラブ人、ペルシア人トルコ人、モンゴル人、インド人等と加えていきながら拡大していった。

今や世界には16億人のイスラム教徒がおり、数十年後にはキリスト教を抜いて世界最大の宗教勢力になる。

・中国は伝説の夏王朝から始まり、殷→周→春秋・戦国時代→秦→漢→三国時代→晋→五胡十六国南北朝時代→隋→唐→五代十国→宋→遼→金→元→明→清 と王朝が何代にも渡って存在する。中国が現在の大きさにざっくり確定したのは、最後に登場した清(17世紀~20世紀)の時代である。

中華思想はコンプレックスの裏返しでもある。漢民族は周辺の野蛮?な民族から常に攻められ時には征服され子分にされ苦渋をなめてきた。そのプライドと劣等感が入り交じった感情が中華思想のもうひとつの真実である。

・北の黄河のアワ文化圏と、南の長江流域のコメ文化圏が一つになり大人口を抱える漢民族の基礎となった。

・「ある王朝の天子がダメな統治を行うと、天が見切りをつけて新たな天子に変わる」という「天命が革まる=革命」という思想が中国にはある。この革命を易姓革命という。徳を失えば、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てる(姓が変わる)という考え方。

匈奴とは、紀元前3世紀ごろから中国の北部にいた遊牧民で、彼らは中国の漢に度々侵入し漢民族を脅かす。南北に分裂した匈奴のうち、南匈奴は中華圏に残りましたが北匈奴は忽然と中華圏から消えた。そして4世紀ごろ中央アジアから黒海周辺、さらに東ヨーロッパに現れた。彼らはローマ帝国民から”フン族”と呼ばれた。フン族の痕跡はヨーロッパ各地に残っている。東欧のハンガリー民族「マジャール人」は実はアジア系で、国名のハンガリー(Hungary)はフンが語源という説がある。

フン族が侵入したとすると、もともとそこにいた民族は玉突きで移動せざるを得ません。それがゲルマン人、ゲルマン系の西ゴート族が375年に衰退してきたローマ帝国内に侵入した。続いて次々とゲルマン系の諸族(東ゴート、ヴァンダル、ランゴバルド、フランクなど)が西ヨーロッパ地域に移動し始めた。これが「ゲルマン民族の大移動」。

・そして395年、ローマ帝国は東西に分裂する。ゲルマン人が多数侵入したイタリア半島イベリア半島など西欧地域を含む西ローマ帝国(種とはローマやミラノ)と、ドナウ川の国境でゲルマン人の侵入を比較的免れた東ローマ帝国(種とはコンスタンティノープル)に分かれる。

なお、西ローマ帝国は、5世紀(476年)ゲルマン人傭兵隊長によって滅ぼされる。

ちなみにゲルマン人キリスト教徒だった。ローマ帝国キリスト教を国教に認める前からキリスト教はむしろゲルマン人に広まっていた。

・ゲルマン系の諸部族は4世紀以降ヨーロッパ各地で国を作る。その中でも8世紀に特に力をもったのがフランク王国。同時にこの時代はイスラム勢力の拡大がフランク王国まで迫っていた。そのためキリスト教圏はアルプス以北の中央ヨーロッパに移動せざるを得なくなった。キリスト教カトリックのトップであるローマ教皇は、800年にフランク王国カール大帝シャルルマーニュ)に西ローマ帝国の「皇帝の冠」を与える。476年に滅んだ西ローマ帝国の復活である。これによりローマ教皇ゲルマン人の希望が同時に叶った。教皇はヨーロッパ北部でのカトリックの勢力拡大、ゲルマン人にとっては野蛮人と軽蔑されてきた自分達に正統性を与えてくれた。こうして「宗教面の指導者=教皇」と「政治面の指導者=皇帝」からなる西ヨーロッパ世界の骨組みが出来上がった。

・カリスマであったカール大帝が死ぬと、ゲルマン民族のしきたりにしたがい、国は三分割される。後のフランス、ドイツ、イタリアへとまとまる文化の素地が出来上がる。

10世紀(962年)ドイツ地域である東フランク王国のオットー1世がローマ教皇から戴冠を受け、神聖ローマ帝国の初代皇帝になった。この神聖ローマ帝国はナポレオンに1806年に滅ぼされるまで800年以上続く。

フランス地域(西フランク王国)ではカペー朝が起こりフランス王国になる。

フランスの北岸、ドーバー海峡に面したノルマンディー地方にいたゲルマン系ノルマン人は11世紀にイギリスに渡り、ゲルマン系のアングロ・サクソン人を征服してノルマン朝を開く。イギリス王国の誕生である。

ドイツもイタリアも、国としては19世紀まで存在しなかった。

・中性の時代、世界史の中心は、世界的商業ネットワークを完成させたイスラム帝国と、孤高の中華世界であった。西欧キリスト教世界はイスラム帝国と対峙し、11世紀から13世紀にかけて十字軍を組織して戦いを挑むが失敗を繰り返す。しかしこの失敗は後に多大な恩恵をもたらす。先進地域であったイスラム世界から様々な先進文化が西欧世界に持ち帰られた。

・これ、全部同じ人物。

 チャールズ、シャルル、カール、カルロス

 ピーター、ぺーター、ペテロ、ピョートル

 ジョン、ヨハネ、ジャン、ヨハン、イワン

 マイケル、ミカエル、ミッチェル

 地名も同様、ブランド名に「アルマーニ」というのがあるが、フランス語でドイツのこと、英語だと「ジャーマニー」

・中国では4世紀に入り遊牧民たちが混乱期に乗じて中原に次々と国を起こす。五胡十六国時代の到来である。このころ大乗仏教も五胡の民族に広がり中国に根を下ろす。自分達が漢民族の下位にあることを説く儒教を遠ざけ仏教や道教を発展させた。

五胡十六国のあと、華北を統一したのは鮮卑の王朝、北魏である。この王朝では遊牧民漢化政策漢民族との同化)がとられた。これにより中華文化遊牧民の特徴がミックスされた。華北北魏北朝)と、華南の宋・斉・梁・陳と続く漢民族王朝南朝)が並立する南北朝時代である。なお、この北魏から日本に仏教が伝えられた。

・6世紀、581年に隋が中国を再統一する。そして黄河と長江を結ぶ総延長2500kmの大運河を建設する。これにより南北の経済も統一された。官僚登用試験である科挙を始め、農地を均田制という皇帝の所有に変えた。

・隋は30数年で、その後300年続く唐に変わる。隋も唐も漢民族の王朝だが、それぞれを建国したのは自称漢民族の末裔、その実は鮮卑の出自といわれている。

契丹(きたん)人が作った遼、その後女真族が作った金により圧迫され、ついには臣下になってしまうという屈辱の宋(北宋南宋)の時代に、中華思想は新たな特徴を身に付け後世に大きな負の影響を与えてしまう。それは「文治主義」と「朱子学」。文治主義とは官僚主導の統治方法。朱子学南宋の時代に儒教を再構築して誕生した。これにより中華文明の停滞が起こってしまった。特に朱子学は優越感と劣等感を併せ持っており、物事の本質よりも名や格(大義名分や上下の秩序)が大事という教えであり、過去重視による未来の否定、継続重視による革新の否定に繋がった。この朱子学は江戸時代の日本にも採用され、権威主義や事大主義、社会の硬直化の要因となった。現代の日本や韓国の度を越した学歴主義や偏差値偏重の遠因とも言える。

・13世紀のモンゴル高原に、チンギス・ハンが登場する。彼はモンゴル族を瞬く間に統一すると、中央アジアのホラズム朝や西夏を征服する。子孫たちも続きユーラシア大陸をほとんど支配する。結局地球上の陸地の4文の1を占め、人口1億人という史上類を見ないモンゴル帝国を築く。

第5代ハンであり、チンギス・ハンの孫のフビライ・ハンは中国全土を征服し、1276年南宋を滅ぼし元を起こした。

・この時代に、ユーラシア大陸には「草原の道」、「シルクロード(オアシスの道)」「海の道」が整備され中華圏・イスラム世界・ヨーロッパを結び一大商業ネットワークが形成された。

そして、停滞する中国を尻目に、中国で発明された火薬、羅針盤活版印刷技術がヨーロッパに知れ渡り、その後のヨーロッパの躍進に繋がった。

アメリカ大陸で文明の始まりが遅れた理由。ユーラシア大陸が東西に長い横長の形で、南北アメリカが南北に長い縦長の形だったから。人も動物も、横(東西)移動のほうがやり易い。南北では気候や植生、生態系が変わるが、東西ではほぼ同一の気候条件で移動できる。つまり移動し易い(交流し易い)ユーラシア大陸で文明が発達した。

・国の種類は、「王国」と「共和国」の二つだけ。あとはそれを少し言い換えたり、その応用形立ったりするだけ。会社に例えると、社長を創業者から選んでいるのが「王国」、公募で選んでいるのが「共和国」になる。なお、社会主義の国では、その国の代表は人ではなく会議。ソビエト連邦で一番偉いのは「ソビエト」という名の会議だった。中国では「全国人民代表大会全人代)」で、その会議の中で一番偉いのが国家主席ということ。

宗教改革は、ローマ教皇庁が資金調達のために発行した「免罪符」に反対して起こった。「カトリックは神との約束の間に聖職者が介在しすぎている。我々は神とダイレクトに約束したい。」この思いがプロテスタントを生んだ。そしてこの約束(聖書)を一気に広めたのが新しい技術革新であるグーテンベルグによる活版印刷技術の発明。技術がプロテスタントを生んだとも言える。

・16世紀半ばから、防戦側であるカトリック(旧教)と反抗側であるプロテスタント(新教)の対立が激化し、ヨーロッパ各地で宗教戦争が始まる。フランドル地方は当時スペイン領だったが、フェリペ2世に弾圧された新教徒がオランダ独立戦争を起こした。フランスではユグノー戦争、イギリスではピューリタン革命。最後の宗教戦争となったのは1618年から1648年まで続いた三十年戦争。この戦争は、周辺国家を交えて戦った”最初の国際戦争”でもある。ユグノー戦争を終結させたフランス・ブルボン朝の祖アンリ4世は「ナントの勅令」を出し、新・旧教徒の両方に「信仰の自由」を約束した。三十年戦争終了時には、ヨーロッパのほとんどの大国が参加して「ウェストファリア条約」が結ばれた。これは最初の国際法。スイスの独立も認められた。

現代社会の基本思想はプロテスタントが生み出したもの。勤労、貯蓄、倹約、節制といった真面目な生き方がプロテスタントの神との約束。この聖書に書かれた神様との約束事を誠実に果たすというのがプロテスタントの生き方。この誠実さが、資本主義、民主主義、個人主義の原動力となる。しかし一方で、この誠実さが「自分の誠実さの押し売り合戦」となり、自分達の誠実さ=正義を他者に押し付けることで戦争を生んできたのも事実である。

・植民地に残るヨーロッパ。フィリピンとは「フェリペの領土」という意味。フェリペとはスペイン帝国最盛期の王フェリペ2世のこと。アメリカのルイジアナは「国王ルイの領土」という意味。ちなみにその地の特産ウイスキーをバーボン(bourbon)というのは、ブルボン朝から来ている。また、イギリスのエリザベス1世は生涯未婚だったため処女王と呼ばれた。その彼女にちなみ「ヴァージニア」と命名された。

アメリカはかなり特殊な国家。18世紀(1776年)独立宣言を発し、やがて独立戦争に勝利して誕生したアメリカ合衆国は全く新しいタイプの国家であった。

他の国では、民族固有の共通な歴史物語があり、その国を建国した先祖はその国の英雄であり、その国の歴史はその国のしきたり・文化・伝統である。しきたりや文化はその集団のアイデンティティとなり、そのアイデンティティを共有する者が国の構成員。でもアメリカ建国の基盤は、英雄でも伝統でもなく「理想」である。神の下の平等という考え方に賛同した人たちが造った人口国家なのだ。

WASP(ワスプ)と呼ばれる白人(White)でアングロ=サクソン(Anglo-Saxons)でプロテスタント(Protestant)のための理想の国を誠実に作ろうとした。

・日本の明治維新は、「革命=Revolution」ではなく「改革=Reformation」だった。革命で行われる過去との断絶、旧体制のボスを処刑するという最も革命的な行為が行われなかった。そういう意味で日本では革命が起こったことがない。過去を継承することを第一義と考える国民性が日本人のアイデンティティだから。

産業革命は都市の工場労働者を生んだ。この工場労働者の出現は新たな社会現象を生んだ。それは「子どもの誕生」である。それまでは”小さい大人”しかいなかった。工場で労働するためには知識と技術を学ぶ必要がある。これによって大人になるために年少期に教育をする期間、すなわち子どもが誕生した。こうして学校制度が発展する。併せてこのころから人の生活は、「食べるために働く」から「働くために食べる」へと変化していった。

・世界史とは「戦争の記述」と言い換えることもできる。あらゆる時代にあらゆる地域で戦争が行われてきた。戦争のない状態のほうが珍しい。

既定秩序のガラガラポンを画策したのが世界大戦である。1914年の第1次世界大戦はドイツが英仏主導の世界秩序の反転を目指してチャレンジした。もう一つは、第1次世界大戦に負けたドイツが1939年に再チャレンジし、そのドイツと組んで欧米主導のアジア秩序の反転を目指した日本が1941年からチャレンジした第2次世界大戦。どちらもガラポンを仕掛けた方が負けた。

これまで他人事だった戦争が、「みんなの戦争」=大量動員と大量殺戮が必要な総力戦になった。

皮肉なことかもしれないが、日本では戦争に負け原爆を落とされた1945年から70年以上戦争をしていない。これは極めて異例の状況。

・1989年は世界史的に大転換の年。日本では1月に昭和天皇崩御され、春頃から東欧ビロード革命が始まった。6月には中国で天安門事件が起こり、ソ連ではゴルバチョフ書記長によるペレストロイカ(改革)が進む。そして11月にはベルリンの壁が崩壊して、12月にはマルタで米ソの首脳が会談して冷戦の終結が宣言された。

なお、その200年前の1789年にフランス革命が起こった。

・お金のはなし。お金は、だいたい4500年前に始まったと言われている。人類の文明史を1万年と仮定すると、むしろお金の無かった時代のほうが5500年と長かったことになる。

お金によって人間が手に入れたのは何か?それは時間である。お金で食べ物を買えば、自分で獲物を獲る時間が節約できる。その分自分のために時間を使うことができる。

つまりお金をたくさん持つことは、時間をたくさん所有できることを意味する。人は必ず死ぬ、使える時間は限られる。したがって限られた時間をできるだけ自分のために使いたい、という欲望が起こるのは当然。この根源的な欲求が富を求める欲求の本質である。

・人類の歴史には三つの波がある。第一の波が先史時代の「農業革命」、第二の波が18世紀の「産業革命」、そして第三の波が進行中の「情報革命」 アルビン・トフラー

今後、医学やAIなどの発展に伴い「人体革命」=改造人間、寿命の大幅延伸など、が起こるかもしれない。

 

世界史はおもしろい!

しばらくの間、集中的に世界史の本を読でみる。

2019.7.15「棒を振る人生~指揮者は時間を彫刻する」佐渡裕

いつものように近所の本屋でぶらぶらしているとき、ふと目に入った本、私の大好きな指揮者佐渡裕さんの書かれた本「棒を振る人生~指揮者は時間を彫刻する」。佐渡さんはすでに3冊も本を書かれているらしい、知らなかった。早速読んでみる。

佐渡さんのコンサートは何度も聞きに行っており、あの情熱溢れる指揮と時にはユーモアある話を楽しんでいる。この本もそんな佐渡さんの音楽に対する深い愛情と、様々な経験から感じ取った考察が、テンポのいい言葉で綴られており一気に読み終えた。

特に心に残った言葉を備忘録として記載しておく。

まずは目次。

第一章 楽譜という宇宙

第二章 指揮者の時間

第三章 オーケストラの輝き

第四章 「第九」の風景

第五章 音楽という贈り物

終章 新たな挑戦

・指揮者は何のためにいるのか

 指揮者と聞いて皆が思い浮かべるイメージは、ステージでオーケストラに向かって指揮棒を振っている姿だろう。しかし、指揮者の仕事のほとんどは、指揮台に立つ以前にある。

指揮者と演奏者の共通言語になるのが楽譜。指揮者はオーケストラの中で唯一、音を鳴らさない音楽家だ。

朝比奈隆先生の生涯最後となった演奏会は、2001年10月に上演したチャイコフスキーの「交響曲第五番」。オーケストラは大阪フィルハーモニ交響楽団。先生は93歳で、そのおよそ二ヶ月後の12月29日に亡くなった。このとき最初の一振りのあと先生は譜面台に手をついたまま動けなくなってしまった。しかし、大フィルの演奏は最後まで整然と続いた。そのときの朝比奈先生は、音のシンボルとして圧倒的な存在感でオーケストラの前に立っていた。それは指揮者の究極の姿だった。

武満徹さんの言葉。

ハ長調ほど美しいものはない。ドミソほど美しいものはありません」僕がキョトンとしていると、武満さんはブラームスの「交響曲第一番」の第四楽章の一部を口ずさんだ。ハ長調のシンプルなメロディーだ。

・今日の演奏が、客席にいる少年佐渡裕に誇れる演奏かどうか。それは演奏会の善し悪しを判断するときの、僕の中で決して動かない基準である。

「第九」について

第四楽章は部屋の中を思いきり散らかしたような不協和音で始まる。そして第三楽章までのメロディの断片を繰り返し、回想する。

第一楽章 過酷な試練に立ち向かう強い意思

第二楽章 肉体的快楽

第三楽章 恋愛、隣人愛、人類愛 

けれど、これらだけでは求めていた真の喜びには辿り着けない。そして冒頭に現れた不協和音を否定するようにバリトンソリストが、「おお友よ、このような音でなく、もっと快い、そして喜びに満ちた歌を歌い出そうではないか」と第一声をあげる。

そして「すべての人が兄弟となり、一つになることを歓喜と呼ぼう」という合唱に繋がる。

・人生に自動ドアはない。人生には勇気を振り絞らなければ開かない扉はいっぱいある。そして勇気を出すときの気持ちは、年齢や状況は変わっても実は同じなのだと僕は思う。

・もし神様がいるとしたら、音楽は神様からの贈り物なのだ。「人間は一緒に生きていくことが、本来の姿なんだよ」ということを人間に教えようとして、神様は音楽を作ったのではないかと思う。

バーンスタインの言葉

「ユタカ、ウィーンで友達はいるのか。いないのなら、私のウィーンの大親友を紹介するよ」と言ってくれた。そうして連れて行ってくれたのは、ベートーヴェンの像の前だった。「彼が昔からの大親友、ルートヴィヒだ。おまえも今日からルートヴィヒと呼べばいい」

なぜか心が暖かくなる話。この本を読んで、ますます佐渡さん、そして音楽が好きになった。